ワイツ「美学における理論の役割」の要約

 モリス・ワイツ「美学における理論の役割」松永伸司訳*1を要約する。芸術の定義論の古典であり、ひとことで要旨をいうならば「芸術の定義は不可能だ。しかし、芸術の定義論じたいは考え方によっては有用である」という感じ。前半の芸術の定義の不可能性のほうが有名で、「(芸術の定義論は)きわめて単純な理由で論理的には無駄である」といってしまう辺りが挑発的でパンチが効いている。

 ワイツがおこなうのは、ウィトゲンシュタインの家族的類似性を使った見慣れた定義批判なのだが、この論文は1956年に出されたもので、『哲学探究』は1953年なので、本論文はそうした定義批判の初期ということになる。

 さて、全体の流れはこんな感じ。

 

 最初に告白しておくと、前半の定義論の紹介・批判と後半の「評価的用法」の議論が難しくてよくわからない箇所があった。レジュメの倫理に則って、そういうところは「よくわかってません」と明記したうえで自分の理解を書いている。

 なお、論文内で芸術理論とか美学理論とか言われるものはすべて芸術の定義論を指しているので、以下では単に「定義論」ということにする。あと、前提として定義とは必要十分条件のことだ。

 

これまでの芸術の定義論の紹介・批判

 ワイツはまず、5つの古典的な芸術の定義論を紹介し、そのそれぞれが不完全であることを示す。

 ここで一瞬だけ論文から離れて定義論の歴史の超基本知識を話しておこう。芸術の定義論はまずもって模倣説にはじまる。模倣説とは「芸術とはなにかの模倣である」という定義観のことで、たとえばリンゴの絵はリンゴの模倣だし、ギリシア悲劇は人々あるいは神々の諸々のふるまいの模倣である。しかし、たとえば抽象絵画は芸術であるのに模倣ではないから、模倣は芸術の必要条件ではないし、モノマネや鏡は芸術ではないが模倣なので、模倣は芸術の十分条件たりえない。というわけで、模倣説はダメ。

 そこで、芸術の内容(リンゴ)ではなく、他のもの(絵の具や線・作者の情動・観賞者の経験)に視点を変えれば定義がうまくできるのではという考えが生まれた。以下で出てくる諸々の定義論はこうした歴史的な文脈のうえで読むと動機がわかりやすい。論文に戻ろう。

 

 紹介・批判されるのは形式主義表現主義直観主義有機体主義、主意主義の五つだ。

 

 まずは形式主義から。形式主義は芸術というより絵画の話ばかりしているので、ここだけ絵画に限定した議論になっている。さて、形式主義は絵画を内容ではなく、「線、色、形状、ボリューム*2——表象的要素を除くキャンバス上のすべてのもの——の一定の組み合わせ」といった「形式」によって定義する。つまり絵の内容=表象的要素を無視して、キャンバス表面の視覚的な特徴だけで絵画を定義しましょうということだ。しかしこれでは、今ぼくがノートに描いた適当な棒人間が芸術になってしまう。そこで形式主義者は、上記の線、色、形状、ボリュームの組み合わせを「意義ぶかい形式」として、これを持つものが芸術であるとする。ぼくの棒人間の線や色は意義ぶかくないので芸術ではない。この理論によって、抽象主義絵画など、特に何の表象もしていないものを絵画と(ひいては芸術と)認めることができる。

 さて、ワイツによると形式主義の定義は誤りである。なぜなら形式主義は循環しているからだ、とワイツはいう。論文ではなくステッカー『分析美学入門』森功次訳を参考にもっと詳しく述べよう。形式主義は、芸術を定義づける「意義ぶかい形式」を、われわれに「美的な情動」を引き起こす唯一のものだと定義している。だが一方で、「美的な情動」を、「意義ぶかい形式」によってのみ引き起こされるものと定義している。これは循環していてダメである。

 

 次に表現主義について。表現主義は絵画だけでなく芸術一般に視野を広げ、芸術をその内容ではなく「(作者の)情動の表出」によって定義する。したがって表現主義者は「情動を石や言葉や音といった媒体のうちに投影することなしには、いかなる芸術もありえない」と考える。芸術とは情動の具体化なのだ。いくらでも反例が見つかるが、けっこう流行った理論らしいので、それなりにメリットがあるのだろう。

 ワイツは表現主義のみに向けた批判をしていないが、おそらく無視できない反例があるという点がダメ。たとえばシェイクスピアの戯曲は別に彼の情動を表出している訳ではないので、表現主義に従うとシェイクスピア作品は全て単なるエンタメになってしまう(ここも『分析美学入門』を参考にした)。

 

 そして、直観主義(これはよくわからなかった)。直観主義者クローチェによれば、芸術とは「特殊な創造的・認知的・精神的な営為」であり、「事物が持つそれ固有の個性についての、その性格上、非概念的な意識」であるらしい。どういうこと???と思うが、要は、クローチェは芸術を単に物質的な表象物と捉えているのではなくて、何か経験以前の精神的なものとして捉えていることになる。芸術とは個人的で精神的なものなのだ。この論文では大して重要じゃないので理解しなくてよし。哲学わかるひと向けに書くと、芸術は超越論的なカテゴリーにもとづいた、したがって前経験的・非概念的な、「想像力の世界」のものらしい*3。そもそもカテゴリーとは、直観に与えられたものを悟性によってアプリオリにあれこれするときの形式のことなので(雑?)、直観主義と言われる所以は何となくわかるが、ドイツ観念論に関わる全ての思想がそうであるように、不親切で難解。よくわからなかったし、カントというよりベルクソンの趣を感じる。

 さて、ワイツによれば直観主義の定義は誤りである。直観主義によれば芸術は個人的で精神的なものだったが、たとえば建築のように公共的で物理的なものを芸術にカウントできないというのはダメだからだ。というのも明らかに芸術といえる建築は確かにあるからである。(これは誰にでも思いつく批判なように思う。この程度の批判は前もって封じられてそうにも思うが……)

 

 それから有機体主義。これはその対象における諸要素が互いに有機的に結びついているようなものを芸術と定義する理論。確かに絵画では線・色・ボリューム・主題などなどの諸要素が有機的に相互作用している。ワイツはかつてこれの支持者だったらしい。

 さて、ワイツによれば有機体主義の定義は誤りである。この定義は芸術だけでなく、あらゆる「因果的統一体」に当てはまるからだ。補足すると、たとえば、ぼくの身体は諸要素が有機的に結びついていて、有機体主義の定義に当てはまってしまうが、ぼくの身体は明らかに芸術ではない。要は、有機体主義は芸術の必要条件は言い当てているかもしれないが、十分条件を示せていない、とワイツは言いたいのだろう。定義は必要十分条件を示せていないとダメなのだ。

 

 最後に主意主義。これは、これまでの定義論が、形式だったり表出だったりの一点突破だったことを批判し、もっといろんな要素を組み合わせて定義を作りましょうというスタンスのもとに編み出された定義。パーカーという人の主意説によると、芸術は①想像的な満足の具体化②公共的な言語③この二つの調和、この三点を全て満たすものだ。簡単に言い換えると、想像という個人的なものと言語という公共的なものとの調和を通じた満足の提供をするものが芸術、ということになる。具体例がなくてこれもよくわからない。②があるのになんで「主意主義」?

 さて、ワイツによれば主意主義の定義は誤りである。ワイツはこの定義の怪しい点として「実在的な満足ではなく想像的な満足を具体化するものである」としているところを挙げている。ただ、この批判もよくわからなかった。

 

 ここまで色々な定義論とその問題点をみてきた。ワイツのあげた問題点は次のようにまとめられる。要するに、これらの定義論は、無視できない反例があったり、芸術以外にも当てはまったりしていて、芸術の必要十分条件を示せていないのである*4

 

 ただ、ワイツは「これらの定義論はこれこれの点で不十分ですね。なのでもっといい定義論を探しましょう」という方向へは進まない。ワイツはもっとラディカルなことをいうのだ。すなわち、「そもそも芸術の定義なんて不可能ですよ」と。

 

芸術の定義の不可能性

 ワイツによれば、美学者はハナから「芸術の本性とは何か」あるいは「芸術の意味とは何か」を問うべきではなく、そのまえに「われわれは「芸術」という日常言語をどのように使っているか」を問うべきだという。

 この日常言語の使用を出発点に据える考え方はウィトゲンシュタインを参考にしている。ここからワイツは、『哲学探究』における「家族的類似性」の概念を用いて、芸術の定義論の無意味さを語りにかかる。

 

 というわけで、「家族的類似性」の説明から。

 ゲームとは何か。この問いに対し、伝統的な哲学ならばゲームの本質を探そうとして、「これを持つものがゲームだ!」と言おうとするだろう。しかしウィトゲンシュタインは違う。彼はまず、われわれは「ゲーム」という日常言語をどのように使っているかを観察するのだ*5

 

 実際にゲームという言葉の使用に注目してみよう。われわれはゲームという言葉で、たとえば「チェス」「ゼルダの伝説」「テニス」「ストラックアウト」「デスゲーム」などを表している。

 こうして例を挙げていくと、ゲーム全てに共通する本質などないということがわかる。仮に「勝敗がつく」を本質にすればストラックアウトやゼルダが除外されるし、「娯楽である」を本質にすればデスゲームが除外される。

 本質がない一方で、今あげたいくつかの例は、それぞれに類似性を持っている。たとえばチェス・テニス・デスゲームは「勝敗がつく」を共通点としてもち、テニス・ストラックアウトは「ボールを使う」を共通点としてもち、デスゲーム以外は「娯楽である」を共通点としてもつ。

 つまり、ゲームには本質がないけれど、類似性で何となく纏まっているのである。このように本質なしのグルーピングをおこなう類似性こそが、「家族的類似性」と呼ばれるのだ。家族的、というのはわかりやすい喩えである。父と姉が「眼」で似ていて、姉と母が「頭の形」で似ていて、母と弟が「鼻」で似ていると、その4人家族は共通したパーツがないにも関わらず、何となくみんな似ているように見える。これが家族的類似性だ。

 

 さて、ゲームという言葉の使用を観察することで、ゲームには全てに共通する本質がないにも関わらず、「家族的類似性」によってまとまっていることがわかった。ワイツによれば、芸術もこの「家族的類似性」によるまとまりであるという。確かに、絵画、映画、建築、小説、詩など、芸術といわれるものたちをよく観察すると、それらに共通の本質はなく、ただ類似性の撚り糸でまとまっているということがわかる。ということは、芸術の本質を探そうとしてきた今までの定義論は、すべて無駄な営みだったということになる。なぜなら、芸術の本質など存在せず、必要十分条件など示しようがないからだ。

 

 ゲームと芸術の共通点は家族的類似性いがいにもある。それは、どちらも新しいものに「開かれた」ものである、ということだ。つまり、芸術はゲームと同じように、われわれが思いつかないような真新しい芸術の条件が出てくる可能性を常に孕んでいるのである。これはたとえば、あの頃の表現主義絵画がまったく予想だにできないものであったことを思うとわかりやすい。あれはそれまで考えられてきた芸術の条件(模倣的である)から大きく逸脱する絵画であったはずだが、そうしたものでさえやはり芸術にカウントされるのだ。そうした意味で、芸術は「開かれた織物状の組織(open texture)」とワイツはいう。芸術は常に自らを拡張する新しいものに開かれている。

 

 この「開かれた織物状の組織」についてもう少し詳しく。

 ワイツによれば、ある概念は以下のときに開かれているという。すなわち、「その概念の適用条件が改訂可能で訂正可能であるとき」だ。ワイツはさらにこんなかんじに言い換える——つまり、概念が改訂可能・訂正可能であるのは、概念Cにとってある新しい状況や事例Nがあった場合に、その新しいNを入れるために概念Cを拡張して概念C +にするか、それとも概念Cを閉じて、新しいNのための概念Dを立ち上げるかを決定する必要があるとき、である。

 逆に、必要十分条件が言えるような数理学的な概念は「閉じた概念」だ、とも言われる。

 ワイツによれば、このように芸術やその下位概念を開かれたものにするのは、実質的なデメリットがある。すなわち、芸術や小説といった概念を閉じられたものとしてしまうと、「諸芸術のうちにある創造性の条件を締め出すこと」になってしまうのだ。

 

 とはいえ、芸術においても正当で有用な「閉じた概念」はある。たとえば「ギリシア悲劇」などがそうだ。

 まず、悲劇は開かれた概念だ。そうでないと、実験的で新奇な悲劇を悲劇としてカウントできなくなってしまう。つまり創造性を締め出してしまう。

 一方で、ギリシア悲劇が閉じた概念であるのは、それが「古代ギリシアで作られたもの」という線引きができ、したがって概念の外延を示すことができ、かつ網羅的であることが可能だからだ。これはつまり、「ギリシア悲劇」の必要十分条件を示すことが可能であるということだろう。確かにこれを認めないとギリシア悲劇研究で困難が生じてしまいそうだ。

 

 さて、本エントリー第2部の最後に、芸術を定義しようとする批評家に対してワイツが述べている有用な指摘を紹介する。例は適当。

 批評家がたとえば文学の定義を「言語による作者の感情の具体化だ」というとき、それは文学の中のある特定のグループすなわち「閉じた概念」の定義であるのを、誤って文学全体すなわち「開かれた概念」の定義である解釈してしまうのである。

 そして、このようにして打ち出された定義——芸術か否かを見分ける基準——は、定義ではなく実質的には「評価するための推奨的な基準」であるのだ。つまり、文学を「言語による作者の感情の具体化だ」と定義する批評家は、実質的には「「作者の感情の具体化」を文学を評価するための基準にしましょう!」といっているということだ。たぶん『若きウェルテルの悩み』とかが好きなんだろう。ようは自分の好きなものを評価して当てはまらないものを排除するやり方をしているわけだ。これはけっこう身の引き締まる指摘だとおもう。この「見分けの基準」「評価の基準」という考え方はあとで重要。なお、ここではネガティブな意味合いでワイツの議論を捉えたが、これはこれで有用であるということが論文の最後で言われる。

 

芸術の定義論の有用性

 ワイツは「芸術」の用法を二つに分類する。記述的用法と評価的用法である。

記述的用法における「Xは芸術である」は、「Xは芸術に分類される」という意味である。この発話の根拠は、もちろん「Xが芸術の必要十分条件を満たしている」ではない。ワイツによれば、芸術に必要十分条件などないのだから。

 「Xは芸術である」つまり「Xは芸術に分類される」の根拠は何か。

 ワイツは、「芸術ってだいたいこれを満たしますよね」という、Xを芸術に分類するための、必要十分条件より緩い条件を「見分けの基準」と名づける。ワイツが「見分けの基準」として例に出すのは、「人の技量や創意工夫や想像力によって作られ、公共的な媒体(石・木・音・言葉など)のうちにいろんなものを具体化している」みたいな基準。ほとんどの芸術作品がこれを満たしそうなものだが、この要件のうちどれかが当てはまらない芸術を想定することは可能だとワイツはいう。たとえば「Xは芸術作品だがある人が絵の具をこぼしたときにたまたまできた」と想定することは可能だ。したがって、上述の見分けの基準「人の技量や〜」は必要十分条件ではない。反例を許すようなゆるい基準なのだ。

 

 (以下、図まで自信ありません。)この考えは対して難しくない。難しいのは、「芸術」の評価的用法の方である。「Xは芸術だ」という発話が、それだけで褒めになることがあるが、これが評価的だ。たとえばめちゃくちゃ良い感じの絵画のまえで「こいつは芸術だ……」というような場合、これは記述的用法であると同時に評価的用法である。もっとわかりやすいのは芸術ではない美しいボールペンに対して「こいつは芸術だ」というような場合だ(ワイツ的には人工性のなさは対象を芸術からはじく理由にはならないので注意)。ワイツの人工性まわりの主張をいったん無視していうと、芸術ではないボールペンに対しての「こいつは芸術だ」は往々にして記述的用法を含まない純粋な評価的用法だろう*6

 

 さて、ワイツが検討するのは、芸術を「うまい具合に調和していること」という評価的な性質によって定義する場合だ。そのうえで、その定義者が「Xは芸術だ」と発話する場合を考えよう。

 まず、これが記述的用法だった場合*7。「Xは芸術だ」という発話はすなわち、「Xはうまい具合に調和している」を含意するだろう(①定義内容の含意)。同時にまた、「Xはうまい具合に調和しているので芸術だ」も含意する(②理由の含意)。

いっぽうで「Xは芸術だ」が評価的用法だった場合。「Xは芸術だ」という発話は、べつに「Xはうまい具合に調和している」を意味しない(①の否定)。同時にまた、「Xはうまい具合に調和しているので芸術(評価的な意味)だ」も意味しない(②の否定)。どういうことだろうか。

ワイツがここで提示しているのは、評価的用法の「Xは芸術だ」は、定義「芸術とはうまい具合に調和しているものである」とは独立したものである、というテーゼである。そしてその結果、評価的用法「Xは芸術だ」は「うまく調和している」(①)も「うまく調和しているので芸術だ」(②)も含意しなくなるのだ*8

 要は、芸術の定義内容にある評価的要素と、「芸術だ」の評価的用法とを互いに独立したものとして考えるべき、ということ。これを結び付けると、「評価の基準」が「見分けの基準」と混同されてしまい、評価の基準を定義(ワイツとしては見分けの基準)にすり替えてしまう、という先述の事態がやってくる。なぜなら「評価の基準」に則った「評価的用法」が、あたかも評価的性質を含む定義・見分けの基準に則った形になってしまうからだ。←ここ甚だ微妙です。



 では、最後に「美学における理論の役割」とは何かについて。本論文での理論は定義論のことなので、「美学における定義論の役割」と言い換えよう。

 ワイツは芸術の定義論が論理的に無駄であるということをここまで主張してきた。しかし、論理的には無駄なのだが、見方によっては有用性もあるのである。

 定義論争の論者たちは、「いままでの定義論は、いま等閑視されているこの性質を見落としている!」というように、古い定義論に対して論駁してきた。これが定義論の歴史である。これを、「必要十分条件の更新の歴史」と捉えては、定義論は単なる無駄な営みでしかなくなってしまう。しかしこれを、そのとき等閑視されているある性質に目を向けさせて「君が無視してるこれって実は素晴らしいものだよね」と言うことの繰り返しの歴史と捉えれば、定義論は途端に価値あるものになる。つまり、「それぞれの理論の価値は、先行の理論が軽視ないし歪曲していた特定の規準を取り上げ、それを正当化しようとするところにある」(引用)のだ。したがって、すでにみた形式主義の定義の意義は、「芸術とは意義ぶかい形式があるものだ」という必要十分条件を示したことではなく、われわれの注意を絵画の造形的要素にいまいちど向けさせることにあると言える。

 要は、定義論の歴史を見る意義は、「芸術とは何か」を知ることではなく、「芸術のなかのどの特徴に注目して芸術を評価してきたか」を知ることだ。言い換えれば、美学における定義論の役割は、芸術の定義あるいは「見分けの基準」を知らしめることではなく、「評価の基準」を知らしめ、芸術作品に対する新たな視点を提供することなのである。

 

コメント

 中心的な主張——「芸術の定義は無理。家族的類似性!open texture...」——は単純明快なのに、けっこう難しい論文だった。どこが難しかったかというと、序盤の5つの定義論の説明と、終盤の芸術の評価的用法の分析。特に後者に関してはまだあんまり掴めていない。一応こうだろうと思う理解を示したが、やはりいま一歩踏み込めていないし、解釈に確信を持てていない。間違いのご指摘などありましたらドシドシおねがいします。

 

 

 

*1:『フィルカル』vol.1 no.2を参照したが、以下でバラ売りもされている。M. Weitz「美学における理論の役割」|まつなが

また、本エントリーよりコンパクトな要約として美学者難波優輝氏のものがある。「美学における理論の役割」 モーリス・ヴァイツ - Lichtung

*2:ボリュームとは雑駁にいえば立体感や重量感のことで、それは表象的内容だろうと思うが形式主義者は形式と見做しているらしい。

*3:論文の説明ではよくわからなかったので武藤大祐「クローチェの芸術ジャンル否定論再考」を参考にした。「想像力の世界」とはこの論文中にあったクローチェの言葉。

*4:また、ワイツはこれまでの定義論の問題点としてそれらが「敬称的定義」であるという点を指摘している。つまり、既に芸術として分類されたものの事実の報告になっている、ということ。これは既に偉いとされている人に敬称をつけるのと同じように、定義以前に芸術に分類されたものについて何かを言っているだけである、という意味だろう。ただ、この敬称的定義の説明には自信がない。

*5:ボードゲーム、カードゲーム、ボールを使うゲーム、格闘的なゲームなどの全てに共通するものは何か?——「何か共通のものがあるに違いない、さもなければ「ゲーム」とは呼ばれない」と言ってはいけない——そうではなく、それらに共通なものがあるかどうかを見たまえ。——なぜなら、それらをよく眺めるなら、君が見るのはすべてに共通するような何かではなく、類似性、類縁性、しかもいくつかの種類の類似性だからだ。繰り返すが、考えるのではなく見るのだ!(『哲学探究』第66節)

*6:ワイツが純粋な評価的用法を認めているかといえば、微妙だと思う。しかしここでは評価的用法についての理解を助けるために、純粋な評価的用法を検討している。

*7:ワイツは評価的用法についてしか検討していないが、本エントリーでは説明をわかりやすくするために記述的用法も検討する。

*8:以下、信憑性は微妙だがわかりやすく説明。

ワイツの人工性がらみの問題でこの例を出すのは憚られるのだが、非芸術(かっこいいボールペン)に対して「芸術だ」と言っている場合を考えよう。ボールペンが非芸術である以上、この「芸術だ」は純粋な評価的用法だ。では、この「芸術だ」は芸術の定義「諸要素がうまく調和している」を含意する(①)だろうか。しないだろう。なぜなら、「このボールペンは芸術だ」の意味は「そのボールペンはかっこいい」であって、「このボールペンは芸術に分類される」という記述的用法的意味では言っていないからである。さらに、「ボールペンはうまく調和しているので称賛に値する」と言っている(②)わけでもない。ボールペンを「芸術だ」と称賛する理由はかっこいいからであってうまく調和しているからではない。