レヴィンソン「仮説的意図主義」の要約——解釈の哲学

厳密なアカデミック・ライティングの作法(書誌情報とか)はけっこうサボっています。わかればよいスタイル。

 

ジェロルド・レヴィンソン「仮説的意図主義:主張、反論、応答」(Jerrold Levinson. Hypothetical Intentionalism: Statement, Objections, and Replies)を要約する。

が、そのまえに仮説的意図主義なるものをざっくり解説しておこう*1。なお、レヴィンソンの考察の対象は、一部を除いてもっぱら文学作品である。従って、本エントリーで「作品」という場合は文学作品を指すと思ってほしい。

 

文学テクストの意味を決定するのは何だろうか。まず思い浮かぶのは、①作者の意図が意味を決める、という考え。この考えによると、ある意味の不明瞭なテクストがあったとき、諸々の推論を通して「作者はこう意図してこの表現にしたはずだ」と答えを出せる。逆に見当違いな解釈に対して「作者の人そこまで考えてないと思うよ」と反論することができる。

もうひとつ思い浮かぶのは、②文章それ自体の慣習的意味・文字通りの意味が作品の意味を決定する、という考え。①とは対照的に、作者の存在を消し去って、テクストオンリーで文学の意味を考えている。文学を読むときにわれわれは別に作者のことを思い浮かべて読むわけでもないし、文章の意味が作品の意味を決定するというのはわかりやすくて受け入れやすい説だ。

しかし、①も②も、その極端なバージョンは無理筋だ。それぞれ問題がある。①の極端なバージョン——すなわち、作品の意味は作者の意図と同一である——を採用してしまうと、作品の意味は作者の思うままになってしまい、たとえばテクスト「Aはりんごを食べた」を作者がそう意図したという理由で「Aは電車に乗った」とか「Bは公園へ走った」とか、ぜんぜん違う意味で解釈できてしまう。要は、テクストの意味が作者の思い通りになることで、〈なんでもあり〉になってしまうのだ(ハンプティ・ダンプティ問題)。したがって①は無理筋*2

いっぽう②の極端なバージョン——すなわち作品の意味は、文章それ自体の慣習的意味・文字通りの意味と同一である——を採用してしまうとどうなるかというと、たとえば皮肉を扱えないという問題が生じる。性格の悪いヤツに対して「まったく、おまえは本当に性格が良いヤツだな」と言うセリフがあったとして、②はこのセリフを〈称賛〉の意味でしか捉えられない。なぜなら、「性格が良い」というテクストには「性格が悪い」という慣習的意味はなく、文字通り「性格が良い」という意味しかないからだ。しかし、この皮肉は〈称賛〉ではなく〈批難〉とか〈揶揄〉とかだろう。②はこれを説明できないので、無理筋。他の難点としては、〈猿が書いた文章とシェイクスピアの書いた文章が同じだったときに、両者を同じく文学作品として見做してしまうが、猿が書いたものを文学作品とするのは直観に反する〉というものもある。

というわけで、①極端な意図主義も、②極端な反意図主義も、どちらも無理筋なので、この両極の間でよりよい説をみつけましょうね、というのが意図論争のモチベーション。そしてそのよりよい説が、たとえば〈穏健な実際の意図主義〉とか〈価値最大化説〉とか〈仮説的意図主義〉だったりするわけだ。今回扱うのは最後の仮説的意図主義。

 

仮説的意図主義の主張をざっくり要約すると、〈作品の意味とは、その作品が置かれている歴史的文脈・文化的文脈・作家の文脈*3を知っていて、高い識別力をもった読者が立てる解釈仮説の中で最良の仮説である〉というかんじ。もっと簡潔にいうと、理想的な鑑賞者が立てる複数の解釈仮説(こういう意味なんじゃないかな、という仮説)の中で、作品の価値をもっとも高めるという意味で最良の仮説が作品の意味である、という説。

レヴィンソン自身はこの仮説的意図主義を意図主義と反意図主義の中間をとる「非意図主義」であると位置づけているが、原虎太郎が論文「美学における意図論争の再描像」で主張するように、実際の作者の意図を作品の意味にほとんど関わらせないという点では反意図主義といってよい。後述するように(そしてもちろん原もことわっているように)、まったく関わらせないわけではないのだが。

 

仮説的意図主義の利点を確認するために、レヴィンソンが「文学における意図と解釈」で出している例を見てみよう。

ある学生が、今年で他大学に移籍する大学教授——この教授は、誰もが認める生粋のクズである——に丁寧な別れの手紙を渡す。というのも、その学生は、今後のキャリアのためにその教授とうまくやっていく必要があるから、印象を高めたいのだ。その手紙には、「送別会での賛辞は、印象的なものでしたが、あなたへの正当な評価とはいえないものでした。」と書かれている。

このテクストの解釈は二通りあるだろう。

まず、教授はこの手紙を自室で読んで、どう解釈するだろうか。間違いなく〈称賛〉の意味で捉えるだろう。正当な評価ではないとはつまり、賛辞が足りていないということだ。

いっぽう、学生が研究室仲間数人でこの手紙を読むときは、このテクストは皮肉として解釈され、〈批難〉〈揶揄〉といった意味で捉えられるだろう。正当な評価ではないとはつまり、賛辞が適切でないということだ。

この二通りの解釈は、どちらも各々の文脈に照らし合わせて適当なものであって、どちらも間違いではないだろう。しかし、実際の意図主義者はこれを認められない。というのも、実際の意図主義者にとって作品の意味は作者の意図によって決定されるので、解釈の答えは二者択一である。学生が意図したのが称賛か批難かで、テクストの解釈に正解・間違いが生まれてしまう。

ここで輝きを放つのが仮説的意図主義だ。この説によれば、文脈をよくよく知っている理想的な鑑賞者が意味を決定するので、文脈に応じた解釈の変化を説明できる。教授が置かれている文脈では称賛説が最良の仮説だし、学生たちのほうは批難・揶揄説が最良の仮説だ。

 

さて、この仮説的意図主義について抑えておくべき点が二つある。

 

まず、レヴィンソンの仮説的意図主義は、実際の作者の意図をまったく考慮しないわけではないということ。どういうことか。

レヴィンソンは作者の意図を二種類に区別している。いっぽうは「カテゴリー的意図(categorial intention)」、もういっぽうは「意味論的意図(semantic intention)」だ。

カテゴリー的意図とは、作家による、〈このテクストはこのカテゴリー——小説、詩、広くは文学——としてみてください〉という意図のことである。つまり、作品のカテゴリーを決定する意図だ。レヴィンソンはおそらくジャンル(SF、私小説など)を決定する意図もカテゴリー的意図に分類している。

意味論的意図は、いままで検討してきたような、テクストの意味を決定する意図のほうだ。

レヴィンソンは、意味論的意図については仮説的意図主義をとるが、カテゴリー的意図については実際の意図主義をとる。

これを理解するために、レヴィンソンの出した例をみてみよう。ある詩人が、自然に対する崇拝の態度を表明しようと意図した詩を書いた。しかし、その詩は作家の不手際や誤った知識によって失敗に終わる。このとき、詩人の意味論的意図は失敗に終わったといえるだろう。しかしながら、それを詩として——短編小説や演劇や書芸術あるいは日記としてではなく——読まれる限り、それを詩として提出した作者のカテゴリー的意図は成功している。

重要なのは、カテゴリー的意図と作品の意味は無関係ではなく、前者は後者に影響を与える、ということだ。かれの詩が詩として読まれたという事実は、それが日記として読まれた場合と比べるとわかりやすいが、明らかに作品の意味に影響している。たとえば、ある不明瞭な表現があったとき、それが詩として読まれていれば何かの演出や比喩だろうと解釈することになろうが、それが日記として読まれていれば、単なる書き損じだと流されるか、あるいは酔っていたのかなとでも解釈されることだろう。(この例は僕の補足です)

 

抑えておくべき点二つ目は、レヴィンソンは文学受容をコミュニケーションモデルで考えている、ということだ。読者は、作品を通して、作者とコミュニケーションをとっている。これは何も突飛な考え方ではなく、〈文学テクストでは、作者によって何らかの意味伝達が行われている〉というごく普通の主張である。この主張によってこそ、猿が書いたテクストとシェイクスピアの書いたテクストについて非文学/文学の線引きが可能になるだろう。

気をつけたいのは、コミュニケーションモデルで考えるといっても、文学と会話を同一視しているわけではないということ。レヴィンソンは、コミュニケーションという大きな集合の中に、文学コミュニケーションと会話コミュニケーションが別々にあると考えている。

道具立てが揃ったので、論文の要約に取り掛かる。

論文全体は、内容から言って二つの部分に大きく分かれているといえる。前半は仮説的意図主義についてのより精緻な説明で、後半は批判に対する応答だ。

 

仮説的意図主義をもっと詳しく

レヴィンソンはまず、本論文と「文学における意図と解釈」の間に出した「解釈における二つの概念(Two notions of Interpretation)」という論文で示した、解釈実践の二通りの区別を紹介する。レヴィンソンによれば、解釈実践はDM(Does mean)解釈とCM(Could mean)解釈に分けられる。DMとは、対象が意味するものを突き止める解釈で、CMは、対象が意味しうるものを探る解釈だ。以下、「解釈における二つの概念」に基づく説明。

放射線科医がレントゲン写真を解釈するとき、それはDM解釈である。その写真がどういった病気を示しているのかを突き止める解釈だからである。

いっぽうで、たとえば星空に思い思いの星座を描くとき、それはCM解釈である。どの星座が答えとかはなく、星々が描きうるあらゆる図形が解釈の産物だ。

気をつけたいのは、あらゆるDM解釈はCM解釈を経由しているということだ。放射線科医は、そのレントゲンが病気A、病気B、病気C、病気Dであるかを検討したうえで、病気Aだと結論づけたわけだが、このABCDの可能性を検討することはCM解釈に他ならない。チェスのとき、相手の手から意図を解釈するとき、さまざまな可能性を考慮したうえで(CM)、最終的に「これが狙いか!」(DM)となる。

対照的に、CMはそれ単独で成り立つことがある。星空のケースのように、解釈それ自体を楽しむ場合がそうだ。レヴィンソンは言っていないが、テクスト論的解釈はわりとこれなんじゃないかと思う。

ここから、CM解釈はさらに二通りに分かれることがわかる。〈DMの前座になるCM〉と、〈それ自体で完結するCM〉である。レヴィンソンは、前者は発見的(ヒューリスティック)で道具的、後者を最終的で内在的(intrinsic)な解釈だとしている。*4

そして、文学解釈はCM→DM型の解釈だ。

DMの際に、実際の意図ではなくいちばんよい仮説的意図を探ろう、というのが仮説的意図主義である。

 

さて、文学解釈が〈発見的CM→DM〉型の解釈であることがわかった。このとき問題になるのは解釈の複数性をどう扱うか、である。DM解釈は放射線科医の例でみたように、唯一の答えを突き止めるタイプの解釈なように思えるが、文学解釈はそのようなものではないだろう。ある文学に対して精神分析的解釈と実存主義的解釈と神学的解釈がそれぞれ正しく存立することは認められてよいはずだ。どれかひとつが正しい解釈であるというのはやりすぎだろう。

 

レヴィンソンはこの複数性の問題に対し、次のように応答する。

複数の〈妥当であり、かつ美的にも満足な最良の解釈仮説=仮説的意図〉を、ある角度から見れば単一な解釈にすることができる。つまり、複数の妥当な解釈仮説R1、R2、R3があったときに、包括的解釈〈R1, R2, and R3〉を作ることが可能だというのだ。

注意すべきは、このとき解釈R1, 2, 3を統一しているのは、連言でも選言でもないということだ。連言とは論理学で「かつ(and)」のことで、選言とは「または(or)」のこと。つまりレヴィンソンがここで言いたいのは、複数の解釈仮説をまとめるような包括的解釈〈R1, R2, and R3〉は、単に解釈が同時に成り立っているということ(R1 and R2 and R3)ではないし、単なる解釈の選択肢の集まり(R1 or R2 or R3)でもない、ということだ。

連言にも選言にもよらない、つまり論理学の範囲外(no logical notion)*5の包括的な解釈が可能である。それによって、複数の解釈がひとまとまりになる。レヴィンソンは、この新しく提案された解釈観を、次のように定式化する。

 

作品Wの意味は、部分的に解釈1(によって与えられ/のもとで適切にみられ)、部分的に解釈2(によって与えられ/のもとで適切にみられ)……部分的に解釈n(によって与えられ/のもとで適切にみられる)ものである*6

解釈1、2、3はそれぞれ独立しつつ、かつ互いに関係づけられている。そして、それぞれの解釈I1, I2, . . . I3は「一階の下位解釈(first-order subinterpretations)」、包括的解釈I*は「高階の解釈(higher-order interpretation)」と呼ばれる。

さらに、レヴィンソンは包括的解釈を、〈単に集合的(collective)あるいは数え上げ的な(enumerative)解釈〉と〈統合的[積分的](integrative)あるいは階層的な(hierarchical)な解釈〉にわけ、文学解釈は後者だと主張する。集合的・数え上げ的な解釈は包括的解釈ではなくて連言・選言的な解釈では?と思うが、違うらしい。どう違うかはわからなかった。

 

連言にも選言にもよらない解釈の統一体が可能である——これは妥当だとも思うが、しかしレヴィンソンはその包括的解釈の内実をこれ以上詳しくは語ってくれない。カフカ『城』について神学的、お役所的(bureaucratic)精神分析的、実存主義的、認識論的読みがそれぞれ可能であり、それら全てを包摂する解釈が連言にも選言にもよらずに可能である、と例を出しながら説明してはくれるのだが、〈それが方法論的に如何にして可能なのか〉〈他のありえそうな説より自信の説がもっともらしいのはなぜか〉〈論理学的には認められないような解釈の在り方がなぜ可能なのか〉などの予想される疑問に対して先回りしているわけではない。正直なところ、説明不足の感は否めない。

前半終わり。後半では仮説的意図主義に向けられた8つの反論に対して応答していく。

反論への応答

以下、それぞれのパラグラフのざっくりとした要約。[角カッコ]内はぼくによる補足や解釈。

 

反論1

作品の実際の創作の歴史に無知のヴェールを被せて、他の要素[テクストそれ自体とか、]にそうしないのは恣意的だ。

 

応答1

たしかに文学の創作は個人的なものだが、それと同時に、慣習に支配された公的なものである。であるからして、個人的なものである創作の歴史を文学解釈から遠ざけるのは、別に恣意的ではないだろう。

 

反論2

仮説的意図主義は、上述のとおり文学のコミュニケーションモデルにコミットしているが、そのようなモデルは、仮説的意図主義のいう〈理想的な読者〉と相性が悪いのではないか。[というのも、ふつうコミュケーションとは、Aさんと、Aさんが相手に想定したBさんとの間で行われるものだから、Aさんが想定していない〈理想的な読者〉を持ち出す仮説的意図主義は自己矛盾をきたしているのでは?]

 

応答2

文学解釈のコミュニケーションモデルは、べつに作品の対象者を当時の同時代人に絞ることにコミットしていない。作品の対象者は、歴史的文脈・文化的文脈・作者の文脈(authorial context)に即して作品を受容して理解するのに適した人間であれば、同時代人でも未来の人間でも誰でもよいのだ。作者と適切な読者とのコミュニケーションも、依然としてコミュニケーションなのである。

 

反論3

作品の基本的な性質やステータスに関して、〈最適なかたちで仮説化されうる意図(optimally hypothesizable intentions)〉を実際の意図に優先させてしまうと、作品の意味の不確定性が受け入れがたいほど大きくなってしまいよくないのでは?

 

応答3

仮説的意図主義は、作品のカテゴリーやジャンルの決定に関して、実際の意図主義と適切なかたちで結びついている。[そして、カテゴリーやジャンルの決定はある程度作品の意味を制限するものである。][レヴィンソン流仮説的意図主義は意味論的意図についてのものであって、カテゴリ的意図についてのものではないのだ。]だから、仮説的意図主義が意味の不確定性を増大させるという懸念は杞憂だろう。

さらに、仮説的意図主義と実際の意図主義を結びつけることで、文学をコミュケーションモデルで捉えるという主張が、二つの理由で強化される。

  • 解釈者が、いま対しているテクストのカテゴリが何なのかを、理想的には知ることができるから。[というのも、コミュニケーションにおいて受容者は、対している言葉がどういう身分のものかを知っている。]
  • 作者が、読者に対して直接に(正確でなくとも)作品のおおよその本性を明かすことで、実際の作者が完全にヴェールに隠れたままということにはならないから。[反論1に対する応答にもなっている]

 

反論4

最良(best)な仮説は論理的に言って正しいものになるはずだ。[そして、実際の意図主義における意図も、原理的に正しいものになる。]とすると、仮説的意図主義の解釈も、実際の意図主義の解釈も実質的には変わらないものになってしまうのではないか?

 

応答4

仮説的意図主義における最良(best)は真(true)という意味ではない。最良の仮説とは、テクストとコンテクストから得られる総体を踏まえたうえで、採用するのに一番もっともらしい説のことであって、真の作者の意図を標榜する説ではない。

 

反論5

最良の仮説と真の仮説との間に違いがあるというのはわかった。しかし、いったん真の意図に到達したひとがそれを捨てて最良の仮説の方を採用するのはヘンだ。科学では、〈方法論的に最も信頼できる仮説〉を観測された事実に優先させることはない。

 

応答5

この反論は、仮説的意図主義が想定している文学解釈のゴールを誤解している。仮説的意図主義は「発話者の意味(utterer’s meaning)」ではなく、「発話の意味(utterance meaning)」を目指しているのだ。発話の意味とは、その文脈における作者の意図のいちばんもっともらしい投影に結びついているだけであって、発話者の意図[実際に作者が意図したこと]に転じることはないのだ。

 

反論6

仮説的意図主義は作品の作者からの自立性を主張するが、カテゴリやジャンルに関して実際の意図を参照している以上、この自立性は損なわれてしまうのではないか?

 

応答6

制限された自立性も、依然として自立性である。この自立性は、文脈から作品を切り離す自立性ではなく、あくまで作者の意図から部分的に切り離す自立性であり、これは文学において[求められる]唯一の自立性である。

 

反論7

仮説的意図主義がいう〈最良の仮説としての意図〉が、〈実際の意図〉と一致しないものである以上、仮説的意図主義は最終的な作品分析において、作者と、作者の達成(achievement)に関心がないように見える。作者と作品をダメなかたちで切り離している。[対して仮説的意図主義はよいかたちで切り離していると主張している。レヴィンソンは「切り離してないよ」と応答するわけではないということに注意。]

 

応答7

仮説的意図主義は、実際の作者の意味論的意図にも重要な役割を与えている。ただ、それが最終的な役割ではなく、発見的な役割であるというだけのことだ。[つまり、作者の意図はあくまで常に目指されるものとして在り続けるが、実際にそれを知ることを目標とする実際の意図主義に対して、仮説的意図主義は最良の〈作者の意図はこうだろうという仮説〉を目標とするのだ。付き合い方が違うだけで、べつに作者と作品を完全に分離しているわけではない。]

 

 

反論8

仮説的意図主義は、〈実際の意図主義よりも現行の解釈実践をうまく説明できている〉ということを根拠に自説を擁護しており、解釈仮説(interpretive hypotheses)を組み立てる際に批評家たちが〈作者の私的な情報—作品の意味に関する作者による公表など—を利用すべからず〉という禁止を遵守していると主張している。しかし、これは事実でない。[つまり、仮説的意図主義の〈作者の私的な情報を使っていない現行の批評実践と仮説的意図主義は合致しますよね〉という経験論的な主張があるが、実際の批評は私的な情報使うこともあるから破綻してませんか、という反論だろう]

 

応答8

仮説的意図主義は、現行の批評実践に基づいた経験論的な主張ではなく、そのような実践の中でいちばん擁護できる実践の根底にあるだろう「規範(norm)」に基づいた主張である。[したがって、現行の批評実践の多くがたとえ作者の私的な情報を使っていても、仮説的意図主義の妥当性には関係のないことだ。]仮説的意図主義のメリットに関する論争は、現行の実践に関する統計的な整合性の如何ではなく、捉えどころのなく、高度に競争的な領域においてこそ行われるべきだ。たしかに、仮説的意図主義についての十全な論拠は未だにないけれど。

 

反論と応答終わり。以下、最終節の要約。

文学作品はもちろんひとつの発話であるが、もっといえば「大いなる発話(grand utterance)」である。大いなる発話とは、通常の発話とは違う基本原則に支配された発話のことだ。では、大いなる発話たる文学は普通の会話とどう違うのか?答えは以下の2点。

  • 文学では、会話と違って、その発話に先行し、かつ独立した、発話に対する興味を持っている。
  • 会話においては意味が不明瞭なところがあったときに発話者に言葉を足してもらったり言葉を撤回してもらったりできるが、文学においてはそうはいかない。せいぜいそのテクストが、作者が提出しようと望んだテクストであるかを確認することができるだけである。

 

[1はつまり、文学は発話だが、同じ発話である会話とは受容者の関心が質的に違うということだ。われわれは友達の日常的な言葉に対するようにして文学テクストに対しているわけではない。これは、仮説的意図主義を正当化するわけではないが、文学をコミュケーションモデルで考えることについての解像度を上げることができている。

いっぽう、2は仮説的意図主義が方法論的によいものであることの根拠になる。というのも、論敵である実際の意図主義は作者の実際の意図に迫ろうとするが、作者がそれを教えてくれないことがほとんどである以上、仮説的意図主義のほうが方法論的により=便利であるからだ。ここで気をつけたいのは、2はべつに仮説的意図主義が哲学的・論理的な正当性にコミットしないということだ。2からは仮説的意図主義が便利であることを引き出せるし、理論において便利さはひとつの美徳であるが、理論が哲学的・論理的に正しいかどうかとは、さしあたっては別の話だ]

 

 

コメント

前半の方のglobal, or subsumptive, interpretationを雑に「包括的解釈」と訳しちゃったのがまずいかも(注5参照)。読んでると「大域的あるいは包摂的な解釈」と訳したくなってくる。no logical notionに引っ張られすぎかな……と思うが、とりあえず書き終えたので世に放ちます。この件も含め、誤読のご指摘などドシドシお願いいたします。

 

分析美学基本論文集のレヴィンソン論文の要約も近々書く予定ですが、エントリー内で触れた「解釈における二つの概念(notions)」がかなり良さそうだったので先そっちを要約するかもしれません。

*1:以下、ステッカー『分析美学入門』森功次訳の第7章と、レヴィンソン「文学における意図と解釈」河合大介訳(西村清和編『分析美学基本論文集』所収)を参考にした。また、歴史的な背景も抑えたいひとはぜひこれを

芸術作品の「最適」な解釈を求めて:ジェロルド・レヴィンソン「仮想意図主義」について - obakeweb

*2:ほかには次のような問題もある。「人間は誰しも意図することすべてを完璧に実現することはできない。そして、作品の意味がその実現されなかった意図と同じになることは、ほとんどありえないだろう。だが、同一説はその両者が常に同じになるということを含意してしまう。」(『分析美学入門』p. )

*3:その作家が、その作品以外にどういう作品を作っているか、など。

*4: チェスのケースはまずもって〈発見的CM→DM〉型だが、さまざまな可能性の推理それ自体を楽しむ場合は〈最終的CM〉といえる。

*5:わからないことがある。レヴィンソンは包括的解釈をno logical notionだとするが、いっぽうでその解釈をglobal・subsumptionと形容する。このsubsumptionは、論理学用語で「包摂」を意味するのだが、これってlogical notionじゃないのか?それともここでもsubsumptionはテクニカルタームとしてではなく日常語として使っているのだろうか。これがよくわからなかったので、本エントリーでは当たり障りのない「包括的」という表し方をした。なお、globalは日常語では「包括的/全体的」という意味だが、数学用語では「大域的」を意味するらしい。どちらの意味で使っているかはよくわからなかった。

*6:うまく訳せなかったので原文載せておきます。

W’s meaning is such that it is partly given by/aptly viewed under interpretation 1, partly given by/aptly viewed under interpretation 2, . . . and partly given by/aptly viewed under interpretation n (. . .)

原文でみたほうが連言でも選言でもないのがわかりやすい。