『Garden of Remembrance』の感想と手短な山田尚子論

ひろしまアニメーションシーズンに来ています。先ほどの「日本依頼コンペティション」のプログラムで山田尚子監督『Garden of Remembrance 』のジャパンプレミアがかかり、無事見届けることができました。今はいったん宿に戻り、カプセルの中でキーボードをカタカタ打っています。

 劇場公開されてない作品であるため、記憶が失われないうちに思ったことを書き留めておこうと思います。以下、ネタバレ注意です(ネタバレが愉しみを損なう類の作品ではありませんが)。あと記憶がすでに曖昧なので、間違ったことを言うかもしれません。そして熱に浮かされたまま書いているので発言の出典とか諸々漏れてます。すいません。

 あと、山田尚子について兼ねてより思っていたことを文字に起こしました。山田作品を「実写映画的」と形容することに異を唱え、無生物をアニメートするのではなく「既存の生を撮る」という彼女のスタンスを手がかりに自説を提示しています。



 

 全体の流れと分析

 さて、まずは前提を揃えるためにあらすじを引いておきます。

空のビール缶・ウィスキーグラスが床に置かれ、部屋の端には画材やエレキギターが並ぶ、少し散らかった「きみ」の部屋。

携帯のアラームが鳴って、ぼんやりと起き上がり「きみ」1人の朝が始まる。
「ぼく」が好きだったアネモネの花、それは「ぼく」との思い出を繋ぐ大切な花。

ある日部屋のクローゼットを開けると「ぼく」との思い出が「きみ」を包み込んでいき・・・

これは「きみ」と「ぼく」、そして「おさななじみ」との”さよなら”を描く物語──。*1

 

で、キービジュがこれ。

 

キービジュ

 下から「きみ」、「ぼく」「おさななじみ」の順番です。本エントリーもこの呼び名に準じます。

 

 さて。

 まずアネモネが「きみ」の手によって水彩で描かれてゆくショットからはじまる今作は、ひとことでいうならば「日常との別れと、別れてなお残る記憶」がテーマになってる——と言ってよいでしょう。もっと具体的にいうと、恋人との別れ、そして彼との日々の記憶です。

 冒頭のアネモネのショットが終わってから、白地にアネモネがポンポン飛ぶ不思議ショット(平家物語を思いだす)のあと、画面にぐるぐるが描かれます。その螺旋が具体的にどういうものかは忘れてしまったのですが、まず画面の中心にぐるぐるがあってそれがメタモルフォーゼしながら、けっきょくコーヒーに溶けるミルクの螺旋を大写ししたショットになります。

 この時点で、作品全体のテーマが視覚的に暗示されています。螺旋ってのは形としては円に似てるけれど、円とは違って終わりがあるものです。一見して同じことの繰り返しにみえる日常が、それでもいずれ必ずくる終焉に漸進してゆく。作品の大テーマにかかわる作品の論理が、作中に幾度となく挿入される螺旋のショットによって示唆されているのです。てらまっとさんも「ツインテールの天使」でけいおんの物語を螺旋に喩えていたと記憶しています。

 さて、主人公は絵本にでてくるようなかわいらしい造形の女性です。そんな彼女の起床から朝食までのモーニングルーティーンが、Tシャツや朝食メニューのマイナーチェンジを含みながら、なんども繰り返されます。日常描写パートですね。特筆すべきはギターがあることです(それが元々「ぼく」の物であったと匂わすシーンもあり)。けいおんの監督っていうイメージが少なからずある彼女の作品ですから、われわれはギターを持っている幼気な女性表象に対してとうぜん中高生くらいの少女だろうと想像するんだけれど、ギターを弾きながらウィスキーをロックでたしなむ彼女をみて「大人だったんかい」と驚くことになります。早くもわれわれはけいおんで脳みそに刻みつけられた「日常の終焉」を想起してしまう。嫌な予感……。モダンラブでもお酒飲んでましたし、山田監督が好きなのかもしれないですね、お酒。

 

 さて、われわれの眼をとくに惹きつけるのは、モーニングルーティンの繰り返しやそのあとの彼女の生活に😊😓🥰😏みたいな顔文字が画面上にコラージュされているところです。それは彼女のアクションと連動してコラージュされるのですが、どうやら彼女自身の感情とも、われわれ観客の感情ともちょっとズレていて、妙な感じを抱かせます。これ、誰の感情?となるわけです。実写的な画作りを好む山田監督としてめずらしい演出ですね。

 で、あるとき、「きみ」は部屋の襖の奥から妙な気配を感じて、襖を開けます。するといっぱいのアネモネの花弁が吹雪く白い不思議空間が広がっていて、奥で男性が笑っている。これが「ぼく」です。そしてここで、顔文字と彼の表情・仕草が一致することで、顔文字は実は「ぼく」の感情を表象していたのだと明かされる。顔文字は距離の隔たった人間同士が気軽に感情のやり取りをするために用いられるものですが、本作の顔文字は一貫して一方向的でものがなしいですね。男性の名前が「ぼく」であることからも明らかなように、この物語は「ぼく」視点であったわけです。あとで観るように、こうした盗撮性は山田作品を読み解くうえで重要な視点です。

 

 「きみ」は舞い散る花弁を足場に「ぼく」の元へ駆けつけようとするのですが、辿り着けません。二人は徹底的に隔たった存在なのです。

 そして、すでにみたモーニングルーティーンの映像が巻き戻り、じつはあの日常の以前に、この家で(半)同棲していた「ぼく」と営まれていた日常があったのだと明かされます。しかしそのアツアツな日々は、なんらかの事情で終わる。つまり別れがおとずれたわけですが、これはどういう種類の別れなのでしょうか。

 おそらく死別でしょう。男性が彼女の日常を一方的に覗き見て顔文字(上述の通り、距離の離れた人間による伝達手段)で反応、ですからね。それに英英辞典によればGarden  of Remenbranceには「故人を偲ぶ場所」という意味があるらしい。見た目がポップなので、シリアルな主題に驚いた人もいるでしょう。山田監督は以下のように語っています。

また作品の色彩が全体的にカラフルに描かれていることについて、ストーリーがシリアスで、見る人によっては「少し悲しい、切ない物語」であると思ったためその分アニメーションは見る人の気持ちが悲しくならないように「まるでお菓子のようなポップで可愛い色を使った」とコメント。*2

 そして、山田尚子が親しい人の死を描くとなると、やはり否応なく想起されるものがありますね。ぼくはあの事件を対象化して語れるほどに一連の出来事との距離を取り得ていないためこれ以上は言及しませんが、彼女の深い悲しみと淡い追憶が、かわいらしい映像の奥に底流していることは確かです。

 

 「ぼく」との思い出パートでは、窓の外の庭からの視点で、カーテン越しにシルエット状で映し出される二人のかなりラブラブな日常が次々と観せられるわけですが、これがGarden of Remenbrance(慣用的な意味は上述のように「故人を偲ぶ場所」だが、直訳すると「追憶の庭」)のタイトル回収になっています。庭の花壇に植えられたアネモネも画角におさめられているのですが、これの色とか変化とかは憶えていません……。

 

 そして物語は終わりへ向かいます。一応ラストのディティールは伏せておきますが、要はポスト「ぼく」に築き上げた新たな日常まで捨て去って、「きみ」はどこか遠くへ行ってしまいます。あらすじ通り、「さよなら」を描く物語であったわけです。けれど、おそらく「きみ」は記憶とまでさよならしたわけではないでしょう。別れを嚥下したうえで記憶の温かみを胸にたずさえながら、彼女は次の日常を歩み始めるのだと思います。

 

 「おさななじみ」がよくわからんかった

 ここまでのざっくりとした紹介を読んで、「おさななじみ」どこいったんと思われるかとおもいます。よくわからなかったので(プラス記憶が曖昧なので)上の節でははしょってしまいました。

 「おさななじみ」は「きみ」に花(たぶんアネモネ)を送ったりして仲は良さそうなのですが、実際に対面している場面はありません。ただ、きみの日常とおさななじみの日常があくまでも画面のレベルのみで交差するだけです。あらすじ曰く「おさななじみ」ともさよならしちゃうわけですが、これはもう一回観ないとちゃんと理解できませんね(それに、ラストの方の記憶が特に朧げです。情けなし)。

 

Garden of Remembranceと山田尚子の作家性

 Garden of Remembranceはけっこう純度の高い山田尚子を浴びることができるので、ファン垂涎の作品といってよいでしょう。また、身も蓋もない話ですが、山田尚子を研究するうえでもめちゃくちゃ役に立ちます。やっぱザ・商業アニメよりもこの手の短編のほうが自分のこだわりを出しやすいでしょうし、あるいは普段の自分とはちょっと離れた実験的な冒険をすることもできるため、自身の作家性が色濃くでやすいからです。いやー、ありがたい。Saruのプロデューサーに大感謝。

 

 さて、この物語は「ぼく」の一方向的な視線によって語られている、という話をすでにしました。この「一方向的な視線」というのは、山田監督の作家性を特徴づける重要なキーワードです。では一方向的な視線とはどういうことでしょう。

 アニメーターが自身の仕事を説明する際によく言われる「無生物・静止画をアニメートする」というスタンスに対して、山田のスタンスは既に生き、存在しているものを撮らせていただくというものです。これは山田のインタビュー(リズの何かとか、キネマ旬報山田尚子特集のやつとか)から明らかです。で、この「既存の生を撮る」という非アニメーション的な姿勢は、山田もいうように、キャラクターが撮られたくないと思う仕方では撮らない(思い悩んでいる表情をド正面から撮らない、澪のパンチラシーンでパンツを映さない)とか、あるいはカメラレンズ的表現に表れています。この二つは別々に論じられがちなんですが、無生物をアニメートするのではなく、すでに生きているものをカメラに収めるというスタンスから統一的に説明できる作家性だとぼくは考えています。

 「既存の生を撮る」というスタンスは、今作では「ぼく」の一方向的な視線に託されています。つまり、空間に内在的な視点から「きみ」に寄り添うというよりかは、むしろキャラクターを対象化して、空間の外から覗く。こういうと冷たく聞こえるかもしれませんが、この距離が彼女なりの倫理なのだと思います。

 さて、いま「覗く」と言いましたが、やはり山田の視線は「盗撮的」ともいうべきものだと考えています。急にギョッとするワードを用いて申し訳ないですが、ここにセクシャルな悪さの含意はありません。

 「盗撮的」についてちょっと説明します。

 よく山田のカメラレンズ的表現を指して、実写的といわれることがありますね。それは間違いではないんですが、少なくとも実写映画的ではない、ということは主張したい点です。実写映画はあんなにカメラ性を強調したりしません。それに、実写映画は生きている俳優の芝居をとるわけですが、アニメーションは芝居を撮るのではありません。むしろアニメーションは本物*3をゼロイチで描き出してゆくのですが、彼女の「既存の生を撮る」というスタンスから見ると、それもちょっと違う。山田のカメラは実写映画のように芝居を撮るわけでも、本物を描き出すわけでもなく、本物を撮る——つまり、現実のものとしてドラマを繰り広げるひとびとを、側からこっそり撮影する、盗撮的なカメラなのです。

 

 繰り返しますが、ふつう盗撮といわれるときのセクシャルな悪さはありません。山田はうしろめたさを感じている(撮らせて"いただく"とどこかで言ってた。多分リズ関係のインタビュー)らしいけれど、これは盗撮の性暴力的なそれではなく、自分が介在しないでも存在している生を、わたしが覗いてしまってごめんなさい、という慎ましいものでしょう。

 今作では男性の一方向的な顔文字表現に表れている「盗撮性」——一方向的な視線——は、ひとつ山田の演出を読み解くうえで重要な視点になっています。こうした山田のスタンスは、構図やカメラ、語りの方法をつらぬいており、彼女の作品にアニメとも実写ともつかない独特な感性をあたえていてよいでしょう。

 

[追記]

山田の目線は少女のフェティッシュ的な描き方から男性的と呼ばれたり(批評家レベルだと石岡良治がおっしゃっていたと思う。確かアニメ超講義のやつ)、逆にフェミニズム的視点から女性的だと指摘されたり(『彼女たちの眼差し』所収の北村匡平の論考)される。これらに対し、私は山田の視線は「親」的であると主張したい。根拠としては、上述の盗撮性(盗撮性→親的、という論理は説明がめんどいので今回は省きます)と、彼女がよく描く「エロスなき裸体」だ。

北村はたしか澪のパンチラシーンでパンツを映さなかった(原作改変)とかを根拠に女性的だと主張していたと記憶しているが、これだとけいおん一期エンディングの裸体、中二恋のエンディング(どれか)の裸体、たまこラブストーリーの裸体(ぼくは公式ガイドブックで見たけど、初出は覚えてない)を説明しにくい。注目すべきことに、山田は男女分け隔てなく裸体を描き、かつ、それが全くエロスを喚起しない形で行われている。

つまり、雑にいうと、山田の描く裸はエロくならないように描かれているのだ。このあたりと、視線の見守り的一方向性とかと絡めて「親」的だと主張したいが、詳しくは別稿を期すこととする。きみの色公開後くらいに書こうかな。

付言①、山田の視線は男性的or女性的or親的というよりも、それぞれが重なり合ったもの——男性性よりは女性性(北村説)の方が強いと思うけど——として捉えるべきでしょう。その中で取りこぼされてきた「親」的視線という論点を言語化して打ち出したいわけです。だってみなさん、けいおんは女子高生に萌えるための美少女アニメじゃなくて、われわれが親になるための物語じゃないですか。

付言②、「親的」ってのは家族主義的で良くないが、他にいいワードが思いつかない。保守的ですいません。

付言③、山田尚子の作家論についてはみなさん源さんの論文読みましょう(

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/287434

)。いつかちゃんと応答しないとなー。

 

その他のコメント

・お馴染みのカメラレンズ的表現は今作では少なかった。目の超クロースアップのシーン(リズとかモダンラブとかでもやってた、斜めの角度から両眼の超クロースアップ、奥の目はボカシ、みたいなやつ)でもレンズ的な効果はコンポジットされておらず、やりがちな被写界深度いじりたおすみたいなことも、フレアめっちゃ炊くみたいなこともなかった。単純に画風に合わないという話かもしれないが、「うちはレンズだけやないねん」というメッセージにもおもえなくもない。

 

・演出で面白かったのは、螺旋アニメーションの挿入で作品の大テーマを暗示したりとか、お馴染みの脚による感情表現(今回も生足でした)とか。デスク下の脚の仕草は「これが観たいんやろ?」ってかんじで、アニメーションもうまかった。原画誰だろう。作監ももあんさん、えらい。

 

・ティザーPV(

https://www.youtube.com/watch?v=xQRzcG4LCmA

)の「それは」の後くらいの、カメラが下移動しながら「きみ」が「ぼく」のいる襖を開けるのを撮るシーンでは、たぶん3DCGのモデリングにトレースする形で作られてると思うんだけど、山田作品では結構レア。眼を惹くいい映像だと思う。これもそうだけど、作画は常に最高だった。ありがとう作画スタッフの皆様、ありがとうももあんさん。

・映像みすぎて音楽にあまり気を配れなかった。別れの音楽だな、というのはわかったが(「好きっていえるタイミングを逸した」みたいな歌詞があった)、それ以上は憶えていない。次回はラブリーサマーちゃんにも注意しながら視聴しよう。

 

・コラージュ・レンズの禁欲・3Dモデリングの下地などの山田の新しい挑戦と、「既存の生を撮る」というスタンスから現れる盗撮性という従来の特徴が重なり合った、山田の新境地を予感させる良作でした。きみの色楽しみだね。

 

[追記その2]

エンドスさんのツイートで確かにって思ったんですが、山田がセリフなしに追悼的な映像を作ったのは象徴的ですね。確かたまこTV版ってたまこのモノローグひとつもなかったし、セリフではないもの(仕草とか構図とか音楽とか)で感情を表象するのは山田の作家性として捉えてよい気がします。

 

 

*1:

「Garden of Remembrance」公式サイト

*2:

「Garden of Remembrance」山田尚子監督が制作秘話語る、キャラクター原案資料も公開(イベントレポート) - コミックナタリー

*3:画面に描かれる平沢唯は誰か他人が演じている平沢唯ではなく、唯そのものです。加えて、唯の運動も、芝居ではなく本物です。この両者はどちらも描写の哲学的には微妙な点ですし、自分なりに立場も持っているのですが、ここではカロリーが高いので立ち入りません。詳しくは高田敦史「図像的フィクショナルキャラクターの問題」、松永伸司「キャラクタは重なり合う」をご参照ください