批判に答える——「美的判断と覚悟」の場合

obakewebが非公開になり、全ての記事のアーカイブが銭さんの個人サイトに移された。実質的には引っ越しといえるが、もうobakewebの看板は掲げないだろうことをかんがみれば、悲報obakewebサ終といってよいだろう。

そして新たにはじまった個人サイト内ブログの劈頭は、私が今年出した「美的判断と覚悟——美的準実在論を擁護する」への批判的なコメントによって飾られている。銭さんはおおまかに言って認知主義者であり私はおおまかに言って表出主義者だが、立場どうしの対立というよりかは、むしろ単に私の論証上のミスを突いているコメントだ。ここで応答するなり撤回するなりしておこう。

私の立場については銭さんの記事にall and onlyにまとめられているので、そちらを読んでほしい。

批判1 「覚悟」ではホプキンスの批判をかわせていないのでは

私は美的判断の規範性を「その判断が構成的な真理値を持つという意味で正誤が問え、かつ、コミュニティによる正誤の精査にかけられる覚悟を判断者が潜在的にもっているということ(p. 33)」というものへ改訂することで、ホプキンスの批判に対処した。この改訂によって、自身と同程度の鑑賞能力をもった多数派の意見を鵜呑みした判断は、美的判断ではない。なぜなら覚悟がないからだ。

なお、覚悟をもった美的判断とは「快の判断とはちがい、自身の可謬性や洗練の可能性を認めつつ、他人による秤にかけられるものだということを信念として抱いたうえでおこなわれる表出である(p. 32)」と説明されている。

「自分の意見に反して多数派の意見を採用するような場合は覚悟が欠けているといえる(p. 34)」ので、多数派の意見を鵜呑みした判断は、美的判断ではない。この主張のどこに問題があるのか。

この主張には十分な根拠が挙げられていない。直観的には、覚悟を持って他人の意見に従うケースだってあるはずだ。例えば私が、ある映画を観て「駄作だ」と判断したが、信用に足る批評家の大多数が「傑作だ」と評しているのを知り、自分の判断もそのように改めたとしよう。このとき私は、改めた判断をコミュニティによる精査にかけることを拒んでいるわけではないし、説得によって意見を変える準備ができてないわけでもない。判断形成のきっかけ(過去)と、判断の行く末に対する準備(未来)は、まったく別問題である。

このことは私自身も論文内で受け入れていることだ。そして、そうであれば、まずいことになる。というのも、私は「他人の意見に従う⇒覚悟がない⇒美的判断じゃない」という理路でホプキンスから自説をディフェンスしたのに、「他人の意見に従う⇒覚悟がない」のところが偽になるからだ。

ある面では批判を受け入れ、ある面では突っぱねることができる。

まず、ホプキンスが問題にしているのは、同程度の鑑賞能力をもった者たちが自分と意見を違え、しかもかれらが多数派である場合だ。そして、そのような場合の鵜呑み判断には、覚悟がない、つまり「他人による秤にかけられるものだということ」をきちんと認識できていない。秤を見てから判断を決めているからだ。このとき「他人の意見に従う⇒覚悟がない」は機能している。したがって、ホプキンスへのカウンターとしては失敗していない。

そして、銭がおそらく問題にしているのは、美的証言論で問題になるような、自分より高レベルな鑑賞者の意見を採用するケースだ*1。この場合、「他人の意見に従う⇒覚悟がない」が機能しなくなることは受け入れる。したがって、「自分の意見に反して多数派の意見を採用するような場合は覚悟が欠けているといえる(p. 34)」という説明は撤回する。

さて、このとき、われわれの振る舞いは以下のスノッブケースと謙虚な鑑賞者ケースに分かれる。この区別によって、私が撤退するべき距離が明らかになる。

スノッブケース

スノッブケースにおいてわれわれは、レベルの高いひとびとの価値判断を鵜呑みにして、その根拠を吟味することなく判断している。この場合、われわれには覚悟がないと主張したい。覚悟には「自身の可謬性や洗練の可能性を認めつつ、他人による秤にかけられるものだということ」という認識が必要だが、スノッブがこのような信念を抱いているとはおもえない。むしろ、秤の傾きを見た上で、自身の鵜呑み判断が正しいと考えて模倣しているといえるだろう。

ただ、この論証が正しいかは微妙だ。スノッブも可謬性を認めて秤にかけられると信じているケースもありそうだからだ。おそらく、スノッブのケースを説明するためには覚悟に追加的な条件が必要になるだろう。要は「覚悟にはちゃんとしたものとちゃんとしていないものがあり、スノッブは後者」と言いたいのだが、私は「ちゃんと」の条件について検討しなければならなくなった(実はこのことはかつて指導教員に批判されたことだったが、まあいっかと思って無視した。後悔。)。

まとめると、私は覚悟に程度があると認めるだけでなく、良い覚悟と悪い覚悟のちがいを説明しなければならない。この仕事はまだ果たされていない。

謙虚な鑑賞者ケース

謙虚な鑑賞者ケースにおいてわれわれは、レベルの高いひとびとの価値判断をただ鵜呑みにするのではなく、判断の根拠を検討したり、対象を再吟味したりして判断を改訂している(そのようなプロセスを経ない判断はスノッブか単に嘘だろう)。この場合は銭が示しているように覚悟を持っているということでいい。

だが、このケースはホプキンスが問題にしているものではないため、私に撤退の必要はない。

批判2 美的準実在論にプロパーな議論になっていないし、倹約性を欠く

覚悟概念は準実在論とは独立した概念だ。したがって、ホプキンスが批判したのと同様の帰結をみちびくであろう美的実在論一般を擁護するためにも、覚悟概念はつかえる。しかし、このことに留意することなく、私は準実在論にかかづらっている(批判2の前半)。

実在論にも使えるという点については、論理的な帰結である以上受け入れる。私は、準実在論について、その批判への応答というよりかは、むしろもっと積極的な擁護を書かなければならない。これが一本の論文でなされるべきだったとは思わないが、何かしらの留保はあってよかった。この論証責任はそう遠くない未来に果たしたい。

というわけで、この論文はけっきょく「美的準実在論はうまくいかないこともない(が、美的実在論もうまくいくかも)」という帰結をみちびく。

しかし、これでいいのか(批判2の後半)。

たしかに「うまくいかないこともない」のかもしれないが、ただでさえ込み入った主張を複数含んでいる準実在論(投影、態度の改善、構成される真理)に、さらに覚悟という要素をつけ加えるせいで、キメラ的で場当たり的な理論になり、理論の倹約性が落ちるばかりではないかという懸念がある。著者が、今後も美的準実在論を継続的に擁護していくつもりなのであれば、この点についてはなにかフォローが欲しいところだ。

まず、私の考えでは、覚悟という概念が準実在論とは独立であるという点でアドホックではない。覚悟はちゃんとした美的判断にすでにあった(が光を当てられていなかった)要素であり、これを発見して名前をつけたというのがこの論文の成果だ。そして、これはどの美的判断論も認めるべきだ(実際にあるものを発見したのだから)。だから、覚悟概念は、論文の書き方に反して、準実在論を擁護するためにこしらえられた概念ではない。この点においてアドホックではない。後出しジャンケンではあるが、応答にはなっているだろう。

また、倹約性を欠くことは、形而上学にとっては難点だが、「現状の美的判断をきちんと説明したうえで、美的論争をエラーだとかたづけないようなよりよい理論を作りましょう」という規範ぶくみのプロジェクトにおいては難点だとはおもわない。世界はよりシンプルなしかたで語られるべきだが、規範がそうである必要はないだろう。私は剃刀に刈られるたぐいの新たな存在者を作り出したのではなく、それをただ発見して、理論に使っただけだ。

規範がシンプルでないことには、〈導かれるべきところのひとびとが理論をきちんと理解できない〉という形而上学とはべつな難点がついてくるが、「覚悟」という直感的な言葉を用いることで、あるていどは解消されている。銭のいうとおり、覚悟という言葉には分厚いニュアンスがあり、多義性の誤謬におちいりやすいが、「可謬性および比較可能性についての傾向的な信念」と名付けてアルファベットで略すよりは、インパクトがあってよい。そして規範がより普及するためには、インパクトは大事だ。本気で「覚悟」が流行るとは思っていないという点では欺瞞だが、ある種の適当さは概念工学者が支払ってもよい代償だろう。

 

関係のないあとがき

obakewebの非公開については、いくらか書くべきことがある。

言わずもがな、obakewebは分析美学の普及において大きな役割を果たしてきた。哲学ブログ全般の中でも抜群のポピュラリティを誇っていたし、私も熱心な読者のひとりだった。それが非公開にされるというのは寂しい。実家に帰ったら昔ちょくちょく行ってたファミレスが消えてたとか、それ系の感傷がある。

現実の場所の喪失とちがうのは、少なくないWebサイトの消失がそうであるように、obakewebもアーカイブ化されているところだ。だが、アーカイブはアーカイブであってobakewebではない。あのルック、あのいいね、あのブクマはもう見られないし、それ以上に決定的になにかがちがう。これは存在論の話だ。

また、個人の思い切りひとつで場所(サイト)が消失するという原理的なレベルにも、現実の場所の喪失にはないやるせなさがある。経済的な理由でファミレスが潰れるのとは違い、ブログの非公開はしょうがなくないのだ。難波さんのLichtungもそうだが、削除ではなくあくまで非公開であり、かつそれが再び公開されることはまずありえないというのも、制作者がとうぜんもつべき傲慢さを発揮している点でのやるせなさがある。

銭さんが思い切った理由はいくつか想像できるが、最大のものは美的な理由だろう。路地の奥まったところにある店みたいに、バズを捨ててこじんまりと自分の仕事を営むことには、孤高とか慎ましいとか感じがよいとかいうべき美的な良さがある。今回のように日本語論文を批判するときに必要以上のアテンションを引かずに済むという良さもあるが、個人サイトのちんまりした収まりには、そういう実利的な側面以上の魅力がある。

だが、銭さんがこういうたぐいの思い切りをするのにはしょうじき虚をつかれた。銭さんの世俗性ラインはTwitterはやらないがブログではちょくちょくバズるくらいのところに設定してあるとおもっていたので、より奥まったところへ移動するのは意外だ。孤高なクールさのためには世俗性ラインを引き上げなければならないので、そういう変容なのかもしれない。世俗性ラインはしばしばアンコントローラブルなので、引き上げたとすればそれじたいがひとつの業だ。世界との距離の取り方にはスキルがあり、上手い下手がある。

あるいは、断捨離の台無し美もあるかもしれない。

台無しのギルティ・プレジャーは私にもわかる。湿疹でただれかけた皮膚をガシガシ掻くときの台無し美は、アトピーと共に幼少時代を過ごした者になら誰だって覚えがあるだろう。だが、断捨離のギルティ・プレジャーが罪悪感(ギルト)を超えることはあまりない。Lichtungが非公開になったときにもおもったことだが、あれだけの蓄積のあるブログを終わらせるというのは、台無し美のなかでもとりわけ超然としたものである。論文にきのこたけのこ論争とか出しているような俗な人間にそんな芸当は困難だ。感性さん冷笑記事みたいな自傷には走れるが、ああいうカマシは俗流の台無し美だろう。

過去の数々のバズをデリートし、これから生まれるはずだった数々のバズを捨てるというのは、まだ私にはできないことだ。世俗性ラインを引き上げて孤高になるためには人生のステージを上げなければならず、それはたとえば歳をとるとか職を得るとか単著を出すとか結婚するとか何かを諦めるとか、そういう実際的な余裕が必要だ。そのどれもが私にはない(年齢24は微妙なところだけど)し、悪いことでもないだろう。孤高な奴はかっこいいが、寂しい生き方といえば、まあそうだ。

 

つらつら惜別を書いてきたが、もちろん復活してほしいわけではない。カムバはアツさとともにダサさを運命づけられてる。たしかに、分析美学の最終回で昆虫亀・9bit・うつし世はゆめ・夏ふよう・#EBF6F7がラスボスにボコボコにされていよいよ敗北かというとき、死んだと思われていたobakewebとLichtungが加勢に駆けつけたら、私はテレビの前で泣きながらペンライトを振るだろう。しかし、このアツさは世俗性ラインをクリアできない。ブローティガン読みがとるべき世界との距離は、しょうもない復帰もしなければ、たとえばエゴサとかもしないといった仕方で測られるべきだ。

*1:同レベルを想定していた場合は以下のように応答できる。ホプキンスが批判していたのは、準実在論を取るなら、美的判断は認識判断と同じように、〈同レベの反対者が多数派を形成している〉というだけで判断を改訂する理由になってしまうということだった。しかし、後述の謙虚な鑑賞者ケースのように、再吟味のプロセスさえ挟まれば「だけ」の部分は消すことができる。吟味の結果が改訂の理由になっているからだ。再吟味なく多数派を受け入れるのはスノッブと同じようなものだろう。