このエントリでは、「価値なんてひとそれぞれだ」という素朴な相対主義を批判する。
さいきん哲学者でない友人に対して「ある種の価値は客観的である」といったことを話したら、そんなわけはないと反論を受け、その後いくつかのディスコミュニケーションを起こした。これは私の方に全的な責任がある。第一に「客観的」という不明瞭な語を使ったうえに、第二に価値の客観性を所与のもの(説明するほどのことでもない当然のこと)として話していたからだ。
そこで、友人に受けた反論を踏まえつつ、相対主義にきちんと反駁してみようと思う。なお、以下の話はすべて何かしらの哲学研究を念頭においており、どれも独力で考えついたものではない。したがってこのエントリは価値論(value theory)の超入門になっていなくもない。
さて、本エントリの中心的な主張は以下だ。
価値観がひとそれぞれだという事実からは、〈価値はひとそれぞれだ〉という主張を導けない。
順を追って説明しよう。
まず、世界の側にAが存在するとしたら、Aがあることは客観的だ。たとえば「あそこに富士山がある」という判断は、まさにそこに富士山が存在することによって正しくなる。これは世界に実在するものによってどの判断が正しいかを客観的に決められるので、実在論あるいは実在論的客観主義と呼ばれる。
いっぽう、私は友人に価値の客観性を説明するために、色の反実在論的客観主義の話をした。この立場によれば、「赤」という色は世界の側に存在しない。世界に存在するのは、特定の波長と受容体だけであり、赤っぽさは脳みその中にしかない(つまりクオリアとしてしかない)。しかし、それでも何が赤で何が赤でないかは客観的だ。赤信号で止まれという道交法は、赤が客観的であるからこそ成り立っているはずだ。
ここで、友人に「赤も主観的でしょ」と反論された。この反論はおそらく、「赤の感じ方は厳密にはひとそれぞれである」ということを言っているのだと思う。
応答しよう。まず、主観的であるとはどういうことか。このエントリでは、主観的である=われわれの経験や感じ(たとえばクオリアや感性、価値観、倫理観、知覚)によって把握されるものである、としよう*1。そのうえで、私は色が主観的であるということを否定しない。当然、色は主観的だ。だが、すぐ後で述べるように、主観的でしかないわけではない。
あそこに富士山があるという判断
問題は、この主観性から、相対主義を導いてしまうことだ。ここでいう相対主義とは、「何が赤くて何が赤くないかはひとそれぞれだ」という立場のことだ。
注意すべきことに、「赤が主観的である」という観察から「赤はひとそれぞれだ」という相対主義を導くまでの道中には、「赤は主観的でしかない」と主張するステップがある。理由は以下。
あそこに富士山があるということは、現に私が富士山を見ているという視覚経験から導かれ、この視覚経験は主観的だ。富士山の像は脳みその中にある。しかし、富士山が脳みその中にあるわけではない。富士山は世界の側に存在する。つまり「あそこに富士山がある」という判断は、主観的な側面と客観的な側面がある。そして、まさにこの客観的な側面によって、「あそこに富士山がある」という判断には真偽が問える。実はあれがハリボテの絵だったとしたら、視覚経験としては富士山が見えているのにもかかわらず、その判断は誤りになるだろう。あそこに富士山があるかどうかは、ひとそれぞれではないのだ。
こうした観察からは、以下の教訓が導ける。つまり、〈判断に主観的な側面がある〉ということからは、〈判断はひとそれぞれだ〉ということは導けない。相対主義を導くためには、少なくとも〈判断に主観的な側面しかない〉と言わなくてはならない。富士山があるか否かについての相対主義は、このワンクッションが支持できないことによって退けられる。
その紙が赤いという判断
では、色はどうか。富士山の例は色とはちがって、指をさせるような答えが世界の側に実在している。したがって、実在論的客観主義がうまいこと機能する。
しかし、色はそうはいかない。赤っぽさは脳みそによって経験されるので、赤には主観的な側面がある。そして、富士山とちがい、赤性なるものが世界の側に存在するとは言いたくないので、富士山より主観的な側面が強そうだ。
しかし、以下の例でわかるとおり、主観的であるだけではない。
あなたの目の前に一枚の紙があり、あなたは視覚経験として「この紙は赤い」と感じた。しかし、実はあなたは行き過ぎた受験生であり、常に赤シートメガネをかけていたのであった。メガネを外してみると、実はこの紙が白色だったことに気づいた。
この例は、「視覚経験として紙が赤いと感じられたとしても、紙が赤いという判断が間違うことがある」ということを示している。主観的には赤いのに、赤でない。このことを説明するためには、標準的な条件において主観的に赤いと感じられる対象が赤いのだ、と言わなくてはならない。標準的な条件とは、たとえば「赤シートメガネをかけていない」「赤の色覚にかんする特性を持っていない」「部屋のライトが赤くない」などがあるだろうが、これらは世界の側の事実だ。以上から、「赤は主観的でしかない」という主張は退けられる。色には主観的な側面と客観的な側面があるのだ。
富士山が美しいという判断
では、価値はどうか。美的価値を例に取ろう。美的価値は他の価値よりもひとそれぞれの余地が大きそうなので、美的価値に客観性があるとしたら、多くの価値には客観性があるといえそうだ。
美的価値はわれわれの感性によって把握されるものだ。富士山は美しいという美的価値判断は、本に「富士山は美しい」と書いてあったからそう判断するようなものではなく、自身の感性によって判断されるものだろう。美的価値はその意味で主観的だ。
では、富士山の美しさはひとそれぞれなのか。相対主義を支持しそうな2つの素朴な事実を並べよう。
事実1: 富士山の美しさは感性によってのみ把握されるものだ。他人の意見を鵜呑みにして「富士山は美しい」と判断するのはおかしい。
事実2: 富士山を美しくないと感じるひともたくさんいる。
この2つの事実から(特に2つ目から)美的価値の相対主義は導けるだろうか。一見して導けそうだが、しかしここから導けるのは、「好き嫌いはひとそれぞれだ」というところまでだ。
好き嫌い(あるいは快不快)の判断と美的な価値判断は違う。たとえば、「夜景をそれほど美しいとはおもわないが、それを価値あるものとは認める」といったことは可能だ。また、私はクリケットのルールを知らないのでクリケットの試合観戦はひどく退屈な経験になると思うが、「クリケットは退屈なものである」という価値判断が私の経験から導かれるようなことはない。以上のことは、好き嫌い・快不快の判断と、美的な価値判断が異なるということを示している。
また、好き嫌い(快不快)の判断と美的な価値判断との重要な違いとして、異論を挟めるか否かがある。
たとえば、アイスのMOWよりもスーパーカップのほうが好きというひとはかなり変だが、この変さは単に極めて少数派であり、ファニーな味覚をもっているということ以上のものではなく、「好き」という判断を改訂しろと言うことはないだろう。好き嫌いには異論の余地がないのだ。ひとがそれに快を感じているというのは端的な事実であり、それを変えろというのはおかしな話だ。
だが、「MOWよりもスーパーカップのほうが優れている」という価値判断には、異論の余地がある。たとえば「バニラアイスが持つべき濃厚感は明らかにMOWのほうが優れている。確かにスーパーカップも濃厚感があるように感じられるが、それは実のところ無駄に甘ったるいのと取ってつけたような油脂感によって錯覚させられているだけだ」のように反論することが可能だ。
ここで注目すべきなのは、美的論争が単に「美しいか否か」「優れているか否か」といった結論どうしを戦わせているのではなく、その理由づけで戦っている点だ。価値判断は理由づけできるのであり、そのことによって論争も可能になっている。
「富士山は美しい」の例に戻ろう。この判断も、理由づけが可能だ。たとえば「シンメトリーな円錐形と、頂上部の大胆な切断がクールだ」「四季によって表情を変えるのがいい」「スケール感に圧倒される」などと理由づけして、美しくない派に反論することができる。しかし、その「美しくない」が、単に「富士山は嫌いだ」「私は富士山にそれほど快をおぼえない」などの好き嫌いの判断だとしたら、そのレベルで論争することはできない。論争可能なのは、あくまで価値判断としての「富士山は美しい・美しくない」のレベルだ。
以上の話で言いたいのは、富士山についての美的な価値判断には論争の余地があるということだ。そして、私が「美的な価値判断には客観性がある」というのは、せいぜい「美的な価値判断には理由づけのレベルで論争の余地がある」くらいの強さの主張だ。このエントリでの美的な客観性は、美的な論争可能性と同じ意味である。美的な価値判断は客観的だ。
ところで、道徳的価値の客観性はもっと強い。「すれ違ったひとを理由なくぶん殴るのは悪い」という道徳的な価値判断も、美的判断と同じように理由づけのレベルで論争が可能だ。「人間は好き勝手生きればよいのだからぶん殴ったってかまわない」というひとに対しては、「不幸は悪いことであり、ぶん殴られるとひとは不幸な状況にあることになるので、ぶん殴るのは不幸という悪いものを生み出す点で悪いのだ」みたいに反論できる。
美的・道徳的な価値判断には、万人が納得できるか否かという点で違いがある。道徳的な領域では(実際には万人が納得することはあまりないが)、それなりに強い説得力をもって論争が可能だ。たしかに「殺人は悪だ」という判断でさえ論争的だ(死刑賛成派は厳しい条件つきで殺人を善としているかもしれない)が、たとえば「理由なく人を殺すのは悪だ」くらいになるとほとんど賛否がないだろう。
いっぽうで、美的判断は理由から結論がスムーズに導かれるようなものではない。第一に、理由じたいもそこそこ論争の余地が大きい。「シンメトリーな円錐形と頂上部の大胆な切断がクールだ」という手前の価値判断じたいに同意しないひともいるだろう。第二に、その手前の判断を認めたとしても、そこから「富士山は美しい」を導くことに同意しないひともいるだろう。「たしかにシンメトリーと頂上部の切断はクールなんだけど、山肌の質感がグロいからなあ」と立ち止まることは十分に可能だ。
したがって、道徳的な領域での客観性は「正誤が問える」くらいに強いが、美的な領域での客観性は「論争が可能だ」くらいの強さだといえるだろう。重要なのは、その論争が不毛なものではなく、理由によって判断の根拠が明確になったり、最初とはちがう心で対象に触れなおしてみたりして、意見を変えたり相手を説得したりすることがしばしば可能だ、ということだ。論争可能性は、答えを得られる可能性をも含んでいるのだ*2。
以上、「価値観がひとそれぞれだという事実からは、〈価値はひとそれぞれだ〉という主張を導けない」ということを説明してきた。もしかしたら別な仕方で〈価値はひとそれぞれだ〉と示せるのかもしれないが、素朴な相対主義のもっともメジャーな論拠は価値観の相対性なので、挙証責任は相対主義の側に突き返されただろう。そういうわけで、このエントリのタイトルは「なぜ価値観はひとそれぞれなのに価値に客観性があるといえるのか」だ。
教訓:客観的・主観的という言葉は使い勝手が悪い
ここまでの話からは次の一般的な教訓が導ける。
第一に、つまり、「客観性」ないし「客観的な」という言葉にはいろいろな意味があるため、議論のすれちがいを避けるために、あるものが客観的であるかどうかみたいな論争では、まず「客観的」という語によって自分が何を意味しているかを明確にするべきだ。心から独立しているという意味なのか、正誤が問えるという意味なのか、判断基準が物理的に存在しているという意味なのか、あるいは貨幣のように社会的に存在しているという意味なのか、単に論争が可能であるくらいの意味なのか。あるいは、「客観的」と「普遍的」あるいは「絶対的」を同一視しているのか*3。客観性はこのように多様な概念とひもづいた言葉なので、自分がどの意味で使っているかは積極的に開示したほうが議論が円滑になる。開示をしてはじめて「客観的な歴史記述などない」みたいな主張は意味をもつだろう。客観性は不明瞭なわりに(あるいはそれゆえに)人気な言葉なので、たぶんこの教訓はそれなりに社会的意義がある。
第二の教訓は、「主観性」「主観的な」といった言葉は悪口としてほとんど機能しない、ということだ。しばしば「あなたの意見・判断は主観的だ」という言葉が悪口としていわれることがある。しかし、何らかの価値判断が主観的であるということは当たり前であり、そもそもの前提だ。問題は、それが好き嫌いや快不快のレベルの純然たる主観的な表明なのか、あるいは主観的でありながらも、何らかの意味で客観的なものとして言われているのかだ。前者の場合はそもそも主観的であることじたい何の問題もない。いっぽう後者の場合は、それが主観的であることじたいが問題であるのではなく(そもそもの前提なので)、客観性の基準がどのように設定されていて、それがどのように満たされているか・いないかが問題だ。だから「主観的だ」とはわざわざいう必要がない。また、「主観的」な判断であっても理由づけが可能であり、それによって説得力をもつ(客観性が確保される)ことがある。だから、議論が価値判断の結論ベースではなく、判断の理由ベースで争われたら、「主観的」であってもじゅうぶん対話が可能だ(これは上述の客観性の基準を積極的に共有するべきだという教訓にもつながる)。以上のように、「主観的だ」という悪口は、たいていのばあい悪口として機能しないどころか、まともな議論においては悪手でさえあるのだ。
ところで、これら2つの教訓は、そもそも客観的・主観的という言葉を使うのをやめてみる、というしかたでもクリアされる。多くの場合、これらの不明瞭な言葉を議論で使うことは、すれ違いやマウンティングのない健全な議論には資さないことが多い。このことは、哲学者が社会に対して提供できるもっとも有益な戒めのひとつであり、私が大学の授業で学んだもっとも重要な教えのひとつでもある。
リーディングリスト
価値論に興味をもったひとが最初に読むべきは植村玄輝ほか編著『現代現象学 経験から始める哲学入門』だ。価値論の項目と美的判断の項目があり、どちらも事前知識ゼロで読める。
美的判断の客観性については源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか 音楽美学と心の哲学』が詳しく、読みやすい(後半は少し難しい)。色の話から客観主義は実在論を含意しないということを示すやりかたはこの本から取った。
同じく源河亨の『美味しいとは何か 食からひもとく美学入門』も、美的なセンスをめぐる哲学入門として最適。新書なので安いしすぐ読める。なんと中学2年生用の国語の教科書に採用されているらしい。
ジョセフ・ラズ『価値があるとはどのようなことか』森村進・奥野久美恵訳では、価値が社会によってつくられるということと、価値が普遍的であるということの両立が目指されている。たとえばチェスの絶妙な一手の価値は、当然社会(チェス文化)に依存している。しかし、①いったんチェスが発明されれば、その価値は永遠になる。仮にチェス文化が滅びても、それは価値へのアクセスが不可能になっただけで、価値じたいは失われていない。②チェスの一手それじたいの価値は、創意工夫や戦略的思考の楽しさといったより手前の価値にもとづいており、その手前の価値は普遍的だ。したがって価値は社会に依存しつつも普遍的なのだ……。この話は富士山の美しさを論じるときに参考にした。意外に読みづらいが勉強になる。
佐藤岳詩『メタ倫理学入門』では、「盗みは悪い」などの道徳的判断が客観的であるとはそもそもどういうことなのかをめぐる哲学研究が教科書的に解説されている。何が正しくて何が間違っているかをめぐる倫理学に対して、そもそも正しいとはどういうことかを探究するのがメタ倫理学だ。そもそも論が好きなひとには楽しい。内容はそれなりに高度だが、説明はわかりやすく、ごまかしがない。
英語だが、Matraversの論文Aesthetic Relativismでは、芸術的評価についての相対主義がもっともらしくないということが示されている。文化相対主義は、日本画が日本人にしかほんとうに理解できないとしたら、日本文化のなかでしか価値をもたないだろうと主張するが、これはアクセスの問題(作品を理解できるか)と価値の問題(作品に価値があるか)を混同している、という話が痛快。本エントリでの関連でいえば、相対主義がもちだす価値判断の相対性は強調されすぎており、実際には一致することも多いという話がある。クリケットの例はここから取った。オープンアクセス。
*1:ここでは主観的=mind-dependentであるとは考えていない。この後の富士山の認知的判断の例はmind-independentだが主観的な側面があることを示している。認知的判断に主観的な側面があると述べることがどれほど哲学で一般的かは知らない(たぶん変)が、大きな問題ではないだろう。
*2:余談だが、私は美的判断の客観性は「正誤が問える」レベルの強さだと考えている。論争が可能だという事実についての最良の説明は「われわれが錯誤的である」ではなく「美的価値に正誤が問える」だからだ。これは、〈素晴らしい・素晴らしくないという答えが世界の側で定まっている〉という美的実在論を含意しているのではなく、〈”わかっている”ひとたちによって任意の美的カテゴリ(山、花瓶、映画)ごとに素晴らしさのTier表が反省的・論争ぶくみのしかたで作られており、SランクをBランクと誤認する奴はセンスがない。したがって「pは美しい」という発話は真理に適合的だ〉という構築主義的な反実在論的客観主義(つまり美的準実在論)を含意している。だが、以上はかなり長い正当化が必要なのでここでは説明しない。
*3:価値論では、「普遍的である」とは個々人や時代・文化によって左右されないということ、「絶対的である」とはなんらかのカテゴリとしてよいみたいな「として」性がないということをそれぞれ意味し、区別されている。価値の普遍性についてはラズ『価値があるとはどのようなことか』森村進・奥野久美恵訳に詳しく、絶対的な価値などあるのか論争についてはFrancesco OrsiのValue Theoryという本の第3章に詳しい。