ディッキー「芸術とはなにか」の要約——分析美学基本論文集②

凡例:「」内は引用や論文タイトルなど、〈〉内はぼくによる強調。引用に際しては文脈に合うように断りなく改訳することがあります。また、引用ページは面倒なので明記しません。

 

 ジョージ・ディッキー「芸術とはなにか——制度的分析」今井晋訳(西村清和編『分析美学基本論文集』所収)を要約する。芸術の定義論の古典であり、芸術の定義は不可能だとする論に反対して芸術の〈制度的定義〉をおこなったことで有名。ひとことで要旨をいうならば〈芸術とは、人工物であり、かつアートワールドの人間に鑑賞の候補だと認められたものである〉となるのだが、これだけではわけがわからないのでさっそく本題に。

 論文の構成は以下。まず美学者モリス・ワイツの〈定義は不可能である〉という主張に反対し、芸術の定義が可能であることを示す。それからじっさいに芸術の定義を打ち出し、最後にまたワイツを批判して終わり。

 

ワイツ論文の紹介と批判

 ワイツ「美学における理論の役割」は、ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」という概念を使って芸術の定義の不可能性を主張する論文だ。ワイツ論文の要旨を本エントリーに必要なぶんだけまとめると以下。ちなみにちゃんとした要約は以下をどうぞ。ワイツ「美学における理論の役割」の要約 - nete-nete.

 まず前提として、定義とは必要十分条件である。ここで芸術を見てみると、作者の感情を表出した絵画から、公共的な建築まで、多種多様なものを我々は〈芸術〉と呼んでいることに気づく。ここから、〈全ての芸術に共通する性質などない〉と考えることができそうだ。したがって、芸術は必要十分条件——全ての芸術に共通する性質(必要条件)とこれさえあれば芸術だといえる性質(十分条件)——で定義されるような閉じた概念ではなく、ただ家族のように似ているもの同士が集まっただけのゆるい概念なのだ。家族という比喩はつまり、父と姉の鼻が似ており、姉と弟の口が似ており、弟と母の耳が似ているような関係を指す。全ての顔に共通する性質はないが、互いに類似性の束でまとまっている。これがウィトゲンシュタインのいう家族的類似性であり、芸術もそういうものなのだ。というわけで芸術に必要十分条件はない。したがって芸術の定義は不可能。

 さらにラディカルなのは、ワイツは芸術の必要条件としての「人工性」を否定するという点だ。芸術はすべて「人工性」を有している、つまり全ての芸術は人によって作られていると主張することは普通のことのように思えるが、ワイツは〈この流木は芸術作品である〉という発話が可能であることを根拠にして、芸術の必要条件から人工性を排したのだ。ワイツによれば、人工性は芸術全ての共通要素にはなりえない。つまり、人工性は芸術の必要条件たりえないということだ。

 ではなぜワイツはこんなに芸術の定義論を目の敵にするのか。べつにこれが理由だと明示しているわけではないが、ワイツが〈芸術の定義論は、芸術の創造性を締め出してしまう〉と主張しているのは重要だ。ワイツによれば、芸術は常に自らを拡張する新しいものの参加の可能性を秘めている「開かれた概念」なのであって、数学的に定義される「閉じた概念」ではないのである。芸術という「開かれた概念」を必要十分条件によって「閉じた概念」化することは、芸術自身を拡張するような作品を否定してしまうという意味で、芸術の創造性を殺してしまうのだ。

 

 対して芸術の定義は可能だと主張するディッキーは、ワイツへの反論のために美学者モーリス・マンデルバウムの「家族的類似」批判を紹介する。

 マンデルバウムは、「家族的類似」が対象の顕示的性質(目に見える性質)にしか目を向けてない点を指摘して、芸術の非顕示的性質(目に見えない性質)にも目を向ければ、全ての芸術に共通する要素が見つかるだろうと主張した。どういうことか。

 芸術における顕示的性質とは、例えば〈その絵画のこの部分は赤い〉とか〈その絵画はしかじかの構図をとっている〉とか〈その悲劇のプロットは幸運から不幸への逆転を描いている〉とか、ようは「容易に知覚可能な性質」のことである。確かに家族的類似は父と弟の鼻、弟と姉の口のように顕示的な性質のみに着目した類似性の束である。そして、芸術における顕示的性質のうち、全作品に共通するものはなさそうである

 いっぽうで芸術における非顕示的性質とはなにか。それはたとえば絵画における絵画史のような〈歴史〉や、あるいは〈作家の意図〉〈社会的背景〉といったもののことだろう。こちらの非顕示的性質に関しては、全作品に共通するものがあるかもしれない。たとえば美学者アーサー・ダントーはこのうち〈歴史〉に着目して芸術の定義論の方向性を示したが(「アートワールド」)、あとでみるようにディッキーは、今回の論文では〈社会的背景〉による定義を試みている

 

 さて、ディッキーは家族的類似批判を念頭においたうえで、ワイツによって否定された、芸術の必要条件としての人工性を復権させる。人工性は芸術の必要条件なのだ

 既にみたように、ワイツは〈この流木は芸術作品だ〉という発話が破綻していないことから、流木という非人工物が芸術に仲間入りすることを示すことで、芸術の定義から人工性を排した。

 ディッキーはこの論理に反駁するべく、美学者リチャード・スクラファニに依拠しつつ、「芸術作品」には次のような3つの意味があると主張する。

  • ①分類的意味:対象を芸術に分類するはたらき
  • ②派生的意味:対象が芸術作品と類似していたり、諸性質を共有していたりすることを指すはたらき。
  • ③評価的意味:対象に価値づけをおこなうはたらき

 

 分類的意味は、例えば〈モナリザは芸術作品だ〉という際に〈モナリザを芸術作品というカテゴリーに分類する〉働きである。

 対して派生的意味は、たとえば〈この流木は芸術作品だ〉という発話に含まれる、〈この流木は芸術作品の範例に似ている〉といった場合の、その対象と芸術との結びつける働きのことをいう。流木ケースにおいて芸術作品の範例とは、たとえばブランクーシ《空間の鳥》が挙げられる。

 また、〈この流木は芸術作品だ〉という発話には評価的意味も含まれているだろう。つまり、〈流木は芸術作品のように美しい〉という意味も明らかにもっているということだ。この評価的意味は〈かれのスルーパスは芸術だ〉などという形で、日常生活の多くの場面で使われるものだろう。

ブランクーシ《空間の鳥》

  さて、以上のように、ワイツが芸術の定義としての人工性を退ける根拠とした〈この流木は芸術作品だ〉という発話には、もっぱら派生的意味と評価的意味のみが含まれており、分類的意味は含まれていないのだ。そして、芸術の定義論で問題となるのは分類的意味としての芸術であり、ここにはワイツのアンチ定義論の射程は届かない

というわけで、ディッキーはワイツを否定し、芸術の必要条件に「人工性」を含めるのだ。


芸術の定義

 ここで一瞬だけ論文から離れて、伝統的な論理学における〈定義〉について少しだけ解説を挟む。かなり雑駁な言い方をしてしまうが、伝統的な論理学における〈定義〉の方法論のひとつとして、〈類〉と〈種差〉をいうというものがある。

 まず、概念Aが概念Bを含むとき、AはBのであり、BはAのである。

 

 たとえば概念〈コーヒー〉が類であり、概念〈ブラックコーヒー〉や概念〈ウインナーコーヒー〉などや種にあたる。そして、種どうしの違いを〈種差〉と呼ぶ。

先述のとおり、定義は〈類〉と〈種差〉をいえばOKだ。たとえばブラックコーヒーを定義したいとき、「コーヒーという類に属し、他のコーヒー種と違って砂糖を含んでいない(種差)もの」と言えばOKなのだ。

 

 さて、論文に戻る。芸術の必要条件に「人工性」を入れたところまでみた。ここにあってディッキーは次のようにいう——「人工性が芸術にとっての必要条件(いまこれを類と呼ぼう)であることはいまや明らかである」と。つまり、人工物は〈芸術〉の類なのだ。先の図の概念Aに芸術を代入すればわかりやすい。

 したがって、定義の方法論にのっとって、あとは種差をいうだけでOK。

 というわけでディッキーは、芸術の人工物内における種差を考える。つまり、芸術は他の人工物たちと何が違うかを考えるのだ。

 

 さて、ディッキーはここで「アートワールド」という概念を導入する。ダントー「アートワールド」から取ってきた概念だが、じつはダントーのそれとは似て非なるものなので注意が必要だ。

 詳しく説明しはしないが*1ダントー流アートワールドは、芸術の歴史や理論の雰囲気のことである。芸術の定義に作品内のもの(色や形、表象内容など)ではなく作品外のもの(歴史、理論)を用いたのが美点だ。

 いっぽうでディッキー流アートワールドは、社会制度のことを指す。〈芸術界〉と邦訳したほうがニュアンスがしっくりくるかもしれない。ダントー流とは定義に作品外のものを持ちだした点で共通しているが、やはり歴史・理論と社会制度ではぜんぜん違う概念である。以下、誤解を招かないようにダントーの話は一切しないでおくが、同じアートワールドでもダントー流とディッキー流ではまったくの別物であることは覚えておいてほしい。

 

 アートワールドは社会制度であると述べた。しかし社会制度といっても、なにか具体的に名前のついた規則や組織のことではないし、それが公的に認められている必要もない。あとでもうすこし深い理解を示すが、さしあたっては「芸術界隈」くらいの意味で捉えておくとよいだろう。

 では、アートワールドと芸術は、具体的にどういう関係をもつのか。それを知るためにディッキーが例に出すのは、絵画や彫刻の領域で起こった「ダダイズム」という芸術運動である。ダダイズムとは簡単にいえば、自らが置かれている秩序や歴史、常識に対する破壊運動である。たとえば現代アート作家のマルセル・デュシャンは、既製品の男性用トイレを展示に出して芸術作品化することで高尚な芸術に対して異議申し立てをおこなったが、これはダダイズムの典型例だ。

 ダダイズムの面白いところは、明らかに芸術作品っぽくないものがそれでも芸術作品であるという点だ。では、なぜ芸術からかけ離れたものを芸術と呼べるのか?それは、その作品——たとえば男性用トイレ——が、芸術という身分を授与されているからである。自然な言葉でいえば、芸術と認められているから芸術なのだ。では、その授与はいったい誰が行っているのか?それはもちろん芸術家や批評家、あるいは観客などであり、ディッキーの用語でいうところの「アートワールド」である。

 芸術という身分の授与という行為がピンとこないひともいることだろう。というのも、ふだんわれわれが芸術をみる際には、芸術身分の授与などという当たり前の行為には目が向かず、もっぱら絵画や彫刻の見た目——顕示的性質——に目が向いているからだ。しかし、ダダイズムのような前衛的な作品が眼前にきたとき、われわれの意識はもはや顕示的性質には向かず、社会的文脈という非顕示的性質に向かうだろう。そうしたうえで、われわれは身分の授与をおこなっているのだ。

 ここまできて、ディッキーはようやく芸術の定義を明示する。ディッキーは「芸術という身分」を具体的に言い換えて「鑑賞の候補という身分」としたうえで、以下のような定義を主張する。[]内はぼく。

(1)人工物であり[類]、

かつ

(2)それが持つ諸側面の集合が、ある特定の社会制度(アートワールド)の代表として行動するある種の人ないし人々をして、当の人工物に対して鑑賞のための候補という身分を授与せしめた[種差]、そういうものである。

 (2)の種差が分かりにくいので、ディッキーは(2)を4つの要素に分けて説明する。ディッキーによれば、(2)は次の4つの観念を利用している。

  • 観念1:ある制度の代表として行為すること
  • 観念2:身分を授与すること
  • 観念3:候補であること
  • 観念4:鑑賞

 この4つの観念を理解すれば、種差(2)も理解できそうだ。

 まず、観念1と2から。ある制度の代表が身分の授与という行為をおこなう——というと堅苦しくてよくわからないが、これは社会においてごくふつうにおこなわれることだ。たとえば、選挙管理委員会の委員長(ある制度の代表)が、Aさんに出馬資格を認める(身分の授与)といった場合や、あるいは、市役所の担当者(ある制度の代表)が、BさんとCさんの結婚を認める(身分の授与)といった場合がそうである。

 今あげた例はどちらも法的な根拠を持つものだが、別にそうでなくとも身分の授与は可能だ。ディッキーが挙げるのは以下——「大学である者にPh.D.の学位を授与すること」「あるものをクラブの長に選出すること」「ある対象を教会の聖遺物であると宣すること」。

 さらに興味深いことに、ディッキーは「ある人がある共同体の内部で賢い人とか名うての愚か者という身分を得る」という事例も〈制度の代表が身分の授与をおこなう〉の一例として挙げている。ここからわかるとおり、ディッキーは「制度の代表」を〈制度のリーダー〉という意味ではなく、〈制度の一員〉ていどの意味で使っている。先生のいう〈生徒一人一人が学校の代表であるという自覚を持って……〉とかいうときの代表だ。また、今の例からもわかるとおり、制度は公式めいたものでなくてよい。社会制度には公式のものもあれば非公式のものもあるのだ。

 

 社会制度「アートワールド」は、ほとんどの場合非公式なものだろう。むしろあるものの芸術・非芸術を決めるような公式機関(たとえば国家)は忌避される傾向にある。

 ではこのアートワールドは、具体的にどういった人物によって構成されるのか。ディッキーが挙げるのは以下だ——すなわち、「芸術家」「プロデューサー」「美術館のディレクター」「美術館の来場者」「観劇者」「新聞記者」「批評家」「芸術史家」「芸術理論家」「芸術哲学者など」。さらにディッキーは「それ以外にも、自分をアートワールドのメンバーと考えるすべての人は、そのことによってメンバーといわれてよい」とけっこうすごいことを言っている*2。ちなみにディッキーはいま挙げた諸メンバーの中で、最小限の中核メンバーとして「芸術家」「プレゼンター[俳優や舞台監督など]」「常連客」を特権視している。

 

 誰が鑑賞の候補という身分を授与するのかはわかった。では、アートワールドの諸氏はどのように身分を授与するのだろう。

 ディッキーは「鑑賞の候補という身分を授与すること」——デュシャンが男性用トイレを鑑賞のために提示すること——とただ「前に広げること」——トイレ会社のセールスマンが男性用トイレを客に示すこと——とを比較することでその問いに答えようとする。この二つの事例のいったい何が違うのか。

 ここで出す答えは正直にいってよい答えとは思わない。肩透かしの循環的な答えだ。ディッキーの答えは以下——すなわち、〈何が違うのか?それは、デュシャンの行動はアートワールドという制度的な環境の内部で行われたが、セールスマンの行動はその外で行われたという、この違いである〉、と。ぼくはあんまり納得いっていない。

 

 さて、気を取り直して観念3〈候補であること〉と観念4〈鑑賞〉についての説明に移ろう。

 そもそも、ディッキーはなぜ単に芸術の定義の条件を〈アートワールドによって鑑賞の対象という身分を授与されたもの〉とせずに〈鑑賞の候補という身分を授与されたもの〉とまどろっこしい言い方をするのだろう。

 それは、〈鑑賞が評価的な意味合いを含むので、分類的意味としての「芸術」の定義に組み込むのはまずいから〉である。鑑賞が評価的な意味を含む、というのは日本語だと少し分かりにくい。ディッキーは鑑賞を「人が価値がある、あるいは貴重だと見なしている事物が持つ様々な質を、いま現に経験している」と定義していることを踏まえれば、鑑賞より〈吟味〉といった日本語のほうがしっくりくるかもしれない。

 「鑑賞」には評価的な意味がある。だから、〈分類的意味の芸術〉の定義には組み込めない。組み込んでしまうと、被定義項〈芸術〉は分類的意味だけでなく評価的意味も帯びてしまい、最初のほうで見た、ディッキーによる定義論の前提である芸術作品の意味三分類が崩れてしまう。

 

 さて、ディッキーは自らの定義論への批判として、美学者テッド・コーエンのものを紹介する。コーエンによれば、「鑑賞の候補の資格がある物に授与されることが可能であるためには、そもそもその物が鑑賞されるということが可能でなければならない」。つまり、鑑賞の候補という資格が対象に授与される以前に、あらかじめ対象に鑑賞可能性がなければならないということ。これがなぜダメかというと、鑑賞候補うんぬんの話の前に、鑑賞不可能だという理由で芸術からはじかれてしまうものがあるからだ。コーエンによれば、「普通の画鋲、安物の白い封筒、ドライブインのレストランで出てくるプラスティック製のフォーク」は、鑑賞可能性を持たない。これはいまいちピンとこないかもしれないが、鑑賞という言葉には評価的意味合いが含まれていることを思い出そう。鑑賞とはただ見ることではない。鑑賞の定義を再引用すれば、「人が価値がある、あるいは貴重だと見なしている事物が持つ様々な質を、いま現に経験している」ことなのだ。

 鑑賞可能性を持たないものは、「鑑賞の候補」の身分は授与できない。とすれば、ディッキーの定義において、普通の画鋲や封筒やプラのフォークなどは芸術になりえない。しかし、それらを使った芸術作品は、デュシャンのトイレ作品などを鑑みれば明らかに可能である。したがって、矛盾していてだめ。

 この批判に対してディッキーは、それが「私の定義にとっては一つの足枷である」と認めた上で、次のように反論する。——〈本当に鑑賞不可能なものなど存在するのだろうか?いや、しないだろう。たとえばデュシャンのトイレは、それが本来備えている「つやのある白い表面、周りのものを反射して映しだすときにみせる深み、卵形の心地よいかたち」は明らかに鑑賞可能性をもっている。同じように、画鋲やら封筒やらも鑑賞可能性をもっているはずだ。〉

 さて、ディッキーの定義における種差に使われた4つの観念の説明が終わった。定義を繰り返すと以下。

(1)人工物であり[類]、

かつ

(2)それが持つ諸側面の集合が、ある特定の社会制度(アートワールド)の代表として行動するある種の人ないし人々をして、当の人工物に対して鑑賞のための候補という身分を授与せしめた[種差]、そういうものである。

 改めて定義を眺めると、芸術の定義に「アートワールド」が入っているのが気になる。けっきょくアートワールドの定義に芸術という概念を使わなければいけない以上、ディッキーの定義は循環しているのではないか。

 ディッキーはこの循環を自覚している。が、しかし、〈循環はしているが、悪循環ではない〉と開き直りを見せる。これは説明するより引用したほうが早い。少し長いけどご容赦を。

 (私の定義は循環しているが、悪循環ではない。)もし私が「芸術作品とは、それに対してある身分がアートワールドによって授与されたある種の人工物である」というような言い方をし、したがってアートワールドに関してはただ、それは鑑賞の候補という身分を授与するとだけ言ったというのであれば、私の定義は悪しき循環だということになるだろう。なぜなら、この循環の輪はあまりにも小さいために、なんらの情報も与えないからである。

 しかしながら、私はこの章において相当の量のスペースを、アートワールド内部の歴史や組織や機能が複雑に絡み合ったさまを記述し分析することに費やしてきたし、この説明が正確だとすれば、読者はアートワールドについて相当量の情報を受け取ったはずである。(したがって、循環ではあるものの悪循環ではない。)

 情報量多くたって、循環していてはダメだろうと思うが……。

 とはいえ、芸術の定義に「制度」を持ち出した点はたしかに革新的で、価値がある。ただ、その「制度」が芸術によって定義づけられるという難問を突破しなくてはいけないというのは、未来がないようにも思えるというのが正直なところである。

 

ふたたびワイツ批判

 最後にワイツの論文に立ち返ろう。冒頭の要約のなかでまだ批判されていない部分がある——〈定義は芸術の創造性の締め出す〉という主張だ。ワイツによれば芸術は開かれた概念であり、それを定義によって、いやむしろ必要条件によって閉じることは新奇で革命的な作品の誕生を阻害する、ということだった。いま定義(必要十分条件)を必要条件と言い換えたのは、必要条件だけでも、全てのアイテムに共通点を要請するという点で〈概念を閉じる〉と言えるから。

 しかし、ディッキーによればこの主張は誤りだ。ディッキーの定義には「人工性」という必要条件が入っているが、これは芸術家の創造性をなんら邪魔しない。理由は以下二つ。

 まず、現代(1970年代)には「確立したジャンルを軽視する風潮と、芸術における新奇さへの声高や要求がある」から。

 次に、人工性は創造性の必要条件だから。たしかに創造行為はもっぱら人間によるものである以上、人工性は創造性の必要条件だといえそうだ。どちらの理由も納得できる。要約終わり。

 

コメント

 レジュメには組み込めなかったが、ディッキーは、〈アートワールドの成因は一人であることが多い〉と述べたり、〈芸術作品のほとんどは制作者以外の誰一人にも見られずじまいなことが大半である〉と述べたりしている。これがよくわからない。適当な落書きまで芸術に含んでいるわけでもなさそうだし、妙。これでは西村氏の解説通り、「なんでもあり」になってしまう。

 

*1:詳しいレジュメは以下をどうぞ。

ダントー「アートワールド」の要約——分析美学基本論文集① - nete-nete.

*2:この点は、西村清和による巻末解説で〈それではなんでもありになってしまい、定義のていを成さないのでは〉と批判されている。そのとおりだと思う。