デイヴィス「芸術の存在論」の要約

 

ページ数表記をしていない「」内は引用ではありません。[]内はぼくによる解釈や補足あるいは疑問です。

 

Stephen Davies「芸術の存在論」(原文)を要約する。英語圏の美学の教科書に収録されている、芸術の存在論入門にちょうどよさそうなテクスト。

 

 まず芸術の存在論ってなんですかという話だが、これは美学者の森功次がわかりやすくまとめてくださっている。曰く、

  • ここで言われる存在論とは、世界に存在する各存在者はどのような基準で分類され、どのような枠組みで整理されるべきか、といった学問です。
  • 芸術作品についてそういう考察を行った場合、文学作品、音楽作品、彫刻作品などの個々の作品はいつ同じで、いつ始まり、いつ終わるのか、といったことが問題になります。この分野の一つの目標は、各芸術作品の存在条件(どういう条件がそろったら作品は存在するのか)、持続条件(どういう条件がそろったら作品は存在し始め、どういう条件が欠けたら作品は無くなるのか)、同一性条件(どういう条件がそろったら複数の存在者が「同じ作品」といえるのか)、などを探すことです。(引用元

 本稿では特に「存在条件」と「同一性条件」が検討されているようである。

 では要約に入ろう。

 

1. イントロダクション(Introduction)

存在論は森の引用にあるように、存在者の分類を司る学問だ。そして芸術の存在論は、芸術という存在者を、その存在を成り立たせる質料(matter)・形式(form)・様態(mode)の考察をとおして分類したりなんやらしたりする学問である。

 芸術の存在論以外にも、芸術を分類する実践はすでにある。たとえば媒体(石・言葉・音・ペイント……)、種(彫刻・文学・音楽・ドラマ・バレエ……)、あるいは様式や内容(悲劇・喜劇・シュルレアリスム表現主義……)などなど。いっぽう芸術の存在論は、こうした区別とはまた別の、[もっと本質的な]区別を探究する。

 次節では、芸術作品を「単数芸術(singular art)」と「複数芸術(multiple art)」に分けたうえで、さらに後者を「上演芸術(performance art)」とその他に分ける。

 と、ここで次のように訝しむひとがいるかもしれない——「すべての芸術が作品のていをなすとは限らないのに、芸術作品に話を限定していいの?たとえば自由即興音楽は単数だから音楽作品に数えられないじゃん(なぜならすべての音楽作品は反復可能なものであり、それゆえ複数芸術だが、即興はそうではないから)」と。こうした反論に対する応答としては、「即興音楽だって別に反復可能なので作品に数えられるだろう」あるいは「確かに単数芸術だけど、即興音楽だって作品だろう」というものがある。

 さて、こうした事情により次の点を認めよう。すなわち、作品であるか否かに関わらず、芸術の産物(product)は存在論的に単数になりうる、と。

 とはいっても、以下では芸術作品存在論に集中して議論を進めようと思う。というのも、「芸術作品」という概念を変に限定的に捉えないかぎり、ほとんどの芸術形式は「作品」と適切に呼びうるような産物を作り出すからだ。

 

2. 単数芸術作品と複数芸術作品(Singular and Multiple Works of Art)

単数芸術と複数芸術を区別しよう。[以下、「芸術作品」という意味で「芸術」という語を用いる]

 以下は筆者が挙げているそれぞれの例である。

 

 単数芸術:油彩画、彫像、ポラロイド(チェキみたいにその場で現像される写真)[さらに木版画とリノカットもここに入れられているが、よくわからない。プリントではなく本体のことを言っているのかな……]

 複数芸術:銅像、フィルム写真、小説、オペラ、詩、バレエ、戯曲、木版画のプリント、音楽作品、映画

 

 さらに複数芸術は、上演(performance)か否かに分類される。たとえばオペラは上演されるが小説はそうではない。

 また、範例(exemplar)としてのステータスを持つような事例(instance[われわれに経験される、個々の芸術作品のこと。例えば、楽譜や音声データではなく、いま私の耳に聞こえているような具体的な音楽。「楽譜は上演によって例化される」という言い方もする])によって伝達・規定されるか、あるいは例化の方法を教えるような指示[たとえば楽譜や脚本]によって伝達・規定されるかによっても分類できる。たとえば詩は前者[詩は「文庫本のあるページ」という事例によって伝達される。]であり、戯曲は後者[戯曲は脚本という指示によって例化される]。

 

2-1. 単数芸術作品(Singular Works of Art)

いま単数芸術と複数芸術を分けたが、「すべての単数芸術は潜在的に複数芸術なので、単数/複数の区別は無効である」という反論がある。たとえば、原子レベルの完全コピーができるスーパーコピー機があるとしよう。これによって生まれた完全コピーは、もはやモナリザである。このように、単数芸術に数えられているモナリザも、実は潜在的に複数芸術なのだ……。

 こうした反論には以下のような再反論が可能だ。すなわち、作品の同一性アイデンティティは作品の「見え(appearance)」だけでなく、その「因果的な来歴(causal provenance)」にも依存する[ので、「見え」が同じでも別の作品でありうるから、作品は単数でありうる]というものだ。

 これに対する再々反論として、「作品の同一性や作品鑑賞に必要なのはコピー元のオリジナルについての情報[=コピー絵の因果的な来歴]ではなく、オリジナル絵の因果的な来歴コピーがオリジナルと物理的に全く同一であるという保証である」というものがある。[これは「コピー絵は因果的な来歴の違いによってオリジナル絵と区別されるため、作品の単数性は保存される」という反論への再反論になっている。]

 これに対して、以下のように切り返すことができる。すなわち「オリジナルの筆跡に直接手を触れることで作家の創造性を近くに感じることができる、みたいな経験は確かにあるんだし、やっぱりオリジナルと完全コピーは別物では」あるいは「オリジナルと完全コピーはそれぞれ別様の経年変化を遂げるのだから、やっぱり別物では」というものだ。後者について著者は「それは複数芸術の個々の事例にも言える」という理由で否定的。

 さて、単数/複数芸術という区別をめぐってはいろんな立場があるが、著者はこの区別は有効であると主張する。理由としては、単数芸術/複数芸術という区別は「われわれが作品を特定(identify)・評価するときの実際の違いを反映しているから」だ(p. 2)。たしかにスーパーコピー機ルーブル美術館にアクセスしづらい人々にとって有益なアイテムにはなるだろうが、未来のスーパーコピー機の誕生が、遡及的に今のこの区別を揺るがすとは考えにくい。[要は、われわれは実際に単数/複数芸術を区別しているんだから、それを存在論に反映させるのはまったくおかしな話ではないということ。存在論は何もわれわれの頭から独立した何かを探求するのではなくて、われわれが実際に考えていること・言っていること・やっていることをいい感じに整理するものなのだ。]

2-2. 単数芸術作品と複数芸術作品とは何が違うのか(Differences between Singular and Multiple Works of Art)

単数芸術と複数芸術との間の境界線は明快に引けるものではない。

 たとえば建築を考えよう。同じ設計図から複数の建築を建てることができるので、複数芸術っぽい。ある分譲地の家々はすべて同じ設計図から建てられているかもしれない。しかし一方で、タージ・マハル[インドのデカい宮殿]みたいな建築は単数なように思われる[たとえばタージ・マハルの設計図を用いて日本に同じ建築を作ったとして、それがタージ・マハルの別の事例と考えられることはなさそう。それは別の作品として考えられるだろう。]建築にも単数芸術っぽいのもあれば複数芸術っぽいのもあるということだ。

 また、単数芸術と複数芸術は単純にその数で分けられるものではない。たとえば銅像の鋳型が、一つ目を作った直後でたまたま破壊されてしまったとき、銅像は複数芸術であるのにも関わらず数としては単数だ。いっぽう、モナリザは単数芸術だが、世界中で模写・コピーされているため数としては複数である。

 以上の話からわかるとおり、単数芸術と複数芸術との違いは、複製物がコピーになるか事例になるかの違いである。たとえば、オースティン『説きふせられて』を手書きで複製したとして、その複製は単数芸術『説きふせられて』の新しい事例になるが、同じように手描きでレンブラントの絵を複製したとしたら、それはあらたな事例にはならずコピーになる。

 では、事例とコピーとの違いはなんだろうか?事例かコピーかはその作者の意図によって決定される、という説はどうだろう。たとえば絵画という単数芸術のコピーを制作する人は、模写あるいは贋作を作ろうと意図している。いっぽうで複数芸術の事例[たとえば音楽の演奏]を制作しようとする人は、別の新しい芸術作品を作ろうとは意図していない。なるほど意図は有効な参照項になりそうと思われるかもしれない。

 しかし、意図は単数芸術/複数芸術を峻別するのに十分ではない。たとえば、それが一回しか上演されないように意図している劇作家の戯曲は、かれの意図に反して複数芸術だ。

 重要なのは、事例ないしはコピーを作ろうという意図が乗っかっている社会的な合意や慣習を、その有効性だけでなく明瞭性の観点から評価することだ。ある人が作品を単数芸術にするか範例(exemplar)にするかの意図は、そうした社会的な文脈の上にのみ成り立つのだ。[「意図を成り立たせる慣習はわれわれにふつうに了解可能なので、意図ではなくそれを成り立たせる慣習・文脈の方にこそ目を向けましょう」くらいのことを言っているのだと思う]

 たとえば、即興詩と即興音楽は、同じ即興であっても、作者の意図ではなく、詩と音楽の慣習的な違いから、即興詩は単数・即興音楽は複数というように区別されるだろう。

2-3. 芸術作品の複数性は三種類ある(Three Kinds of Multiplicity in Works of Art)

複数芸術において、作品の複数化には3パターンある。

 ① [範例パターン]

 範例としての事例がまずつくられ、それをモデルに他の事例が制作されるパターン。たとえば、小説家の書いたある小説の原稿は、その小説の事例のひとつであるが、他の事例作成[たとえば印刷所での大量印刷]における模範=範例として機能する。このように、範例としての事例→それを手本にしたその他の事例、という構造がこのパターンではとられる。また、事例の制作においては、範例を忠実に再現する必要がないケースもある。

 ②[エンコーディングパターン]

 「エンコーディング」を通して事例が制作されるパターン。エンコーディングの例として筆者は写真のネガ、シルクスクリーン銅像の鋳型[?]、DTMのファイル、映画のマスタープリントを挙げている。[要は作品を出力するための元データみたいなもののことだろう。]そして、これらエンコーディングを「デコード[出力]」することで、事例が制作される。[たとえばパソコンで音楽を聴くとき、音データがエンコーディングであり、それがパソコンによってデコードされて、われわれの耳に入る新たな事例が制作される]エンコーディングは、新たな事例の元手となる点で範例と同じだが、それ自体が事例にならない[音データ自体は音楽の事例ではない]という点で異なる。

また、筆者はベンヤミンの「アウラ」概念についてもここで触れている。曰く、ベンヤミンのいう「アウラ」は、単数芸術には当てはまるものの、複数芸術には当てはまらない。

 ③[インストラクションパターン]「インストラクション」の指導によって事例が制作されるパターン。たとえば楽譜や脚本がインストラクションだ。演奏家は楽譜というインストラクションに沿って演奏を行うし、演出家は脚本というインストラクションに沿って戯曲を制作する。事例はインストラクションに忠実である必要はない。たとえば演奏家は、記譜された楽譜の「解釈」によって自分なりの演奏を行なうことができる。

 記譜法(notation)については不確定性(indefiniteness)と不完全性(incompleteness)を分けることが重要だ。たとえば脚本は舞台のセットや俳優の衣装について細かい指示をおこなっていない(不確定性)ものの、それは脚本の不完全性にはつながらない。インストラクションの導きで事例を制作する人にはある程度の自由が与えられているのだ。

[この流れでグッドマンの「記譜法」論について述べられているがよくわからなかった。]

2-4. 複数作品の実演における忠実性(Faithfulness in Renditions of Multiple Works)

事例が範例・エンコーディング・インストラクションに対して「忠実性(faithfulness)」を持つとはどういうことだろうか。

 事例がエンコーディングに対して重要である、というのはわかりやすい。オーディオ機器が故障しなければ、それから流れる楽曲の事例はそのエンコーディング=音声データに対して忠実なものになるだろう。これは、小説のようなケース、すなわち範例から他の事例が制作されるようなケースについても当てはまる。

 では、例化が完全でない場合はどう考えればいいだろうか。以下では①映画がディスクの傷や静電気によってほんの一部が欠損した場合、②演奏家が楽譜を解釈してちょっとアレンジするような場合を考えよう。

 ① この場合、われわれはそれでもその作品を観た、とふつう認めるだろう。

 しかしGoodmanはそうとは考えない。例えば音楽の場合、彼は一音でも違えばそれは違う音楽だと考えるのだ。ある音楽の不正確な演奏は、その音楽の事例にはなれない、ということだ。

 筆者はGoodmanが看過している点をいくつか指摘して反論する。まず、不完全な演奏をする演奏者は、その曲を演奏することを意図しているということ。そして、楽譜や範例[?]を通して、演奏者と作曲者の創作との間に因果関係が完全に担保されるということ。また、音楽は音構造に還元できないということ。誤った音がメロディの同一性を失わせないならば、メロディは曲の例化に貢献することができる。

 ② 演奏家が独創的で興味深い解釈を生むために、楽譜=インストラクションから意図的に少し離れたとき、その事例は楽譜の示す楽曲の事例になるのだろうか。

 答えは、作品の例化のどこに重点を置くかに依存する。

 著者はここまで、われわれが実演[例化]について、その独自の特徴だけでなく、作品へのアクセスや、作品をどう実演に反映させるかという点に興味をもつと仮定してきた。後者二つが最優先の目標であるならば、例化の忠実性は最大の価値を持つことになる。

 しかし、忠実性が重要でないケースもある。例えば学校で古典戯曲を教える場合、大胆なカットや、俳優の数を従来のものより減らしたりすることがむしろ適切であるかもしれない。

2-5. 実演のための作品と、そうでない作品(Works for Performance versus Ones that Are Not)

[ここまでは複数芸術を範例パターン・エンコーディングパターン・インストラクションパターンに分類してきた。ひるがえって今節では、複数芸術を実演か否かで分類する。]

エンコーディングパターンは実演によっては例化されない。磁気テープは音楽を実演しているわけではない。

 インストラクションパターンは実演によって例化される。劇は台本を実演することで例化される。

 いっぽう範例パターンでは、実演されるものとそうでないものがある。小説は実演されないが、バレエは実演されるものだ。

 同じ芸術形式でも実演されるされないは様々だ。音楽は実演されるものもあればデコードされるものもある。また、詩は朗読すれば実演だし、黙読すればそうではない。

 実演とそうでないものとの違いはなんだろうか。

 写真、銅像シルクスクリーンは実演ではない。[いっぽうオーケストラや演劇は実演だ。後者2つに比べて前者]3つは、作品の同一性に時間性(temporality)が関与しない。つまり、その作品がその作品であるために、時間性を必要としないのが非実演で、必要とするのが実演なのだ。ここから、小説を読むことが実演でないということを説明できる。小説は物語における順序立てが作品の同一性に関わるため時間的なものだが、しかし読者は自由に読み飛ばしたり戻ったりすることができるし、読書のペース・一回に読むエピソードの数、およびその時間的な間隔は同一性に関わらない。故に読書は実演ではない。

 しかし、時間性が同一性に関わるか否かという基準だけでは、映画やCDの再生が実演になってしまう。これらを実演からはぶくためには、もっと他の基準が必要だ。

 その基準の一つとして、著者は「解釈」の有無を挙げている。作品の実演には実演者の解釈が必要だが、映画や音楽の再生はそうではない。

 また、映画(非実演)と演劇(実演)との違いとして、演技が作品の例化に寄与するか否かを挙げている。映画における演技は作品の創造には関わるが、その例化[たとえば上映]には直接寄与しない。

 ロック音楽は微妙な立ち位置だ。ロック音楽はレコーディングされるもの、と考えるなら上演芸術ではないし、ライブで演奏するもの、と考えるなら非上演だ。

2-6. 複数作品とその事例と間の関係(The Relation between Multiple Works and their Instances)

複数芸術において、作品とその事例とはどんな関係に置かれているのだろうか。

 諸説ある。クラスとそのメンバー説(Goodman)、タイプとそのトークン説(Wollheim、Margolis、Zemach、Dipert)、種(kind)とその実例(Wolterstorff)説、パターンとその実現(realization)説だ。

 クラスとメンバー説は直観に反する。この立場では、実演されていない作品が全て同じ作品ということになってしまうからだ[音楽Aは演奏されたことがない。メンバーがないため、音楽Aは空集合だ。音楽Bも演奏されたことがないため、空集合だ。空集合空集合は等しいため、A=Bが成り立つ]。また、実演されればされるほど作品=クラスが膨れ上がっていくというのも直観に反する。クラスとメンバーは異なるのだ。

 この点をタイプとそのトークン説はクリアしている。タイプ・トークンとは、たとえばnoonという単語において2つあるのがタイプ、4つあるのがトークンだ。USドル=タイプについて考えるとき、われわれは実際のドル札=トークンの映像を思い浮かべる。

 また、種とその実例説は、タイプ・トークン説のように実際の性質の共有を必要とするのではなく、作品とその事例の間で「述語(predicate)」の共有を必要とする、というものだ。「アメリカヒグマは唸る[述語]ものであり、茶色である[述語]→茶色でなかったり唸らなかったりするものはアメリカヒグマの事例にはなれない」という式が成り立つのとちょうど同じように、ベートーベン第五交響曲がラストでノイジーかつ盛大になるのは、もっぱらその正確な演奏がそうした性質を再現せねばならないからに他ならない。

[タイプ/トークン説と種/実例説との違いはよくわからなかった。また、パターンとその実現説についての説明はない。]

 Wolterstorffは、自然種(natural kind)がそうであるように、種は記述的というよりはむしろ規範的なものであると主張する。この立場においては、事例には優劣がある。セリフを飛ばしてしまった戯曲は劣った事例だ、ということだ。クラス、タイプ、パターンも、種と同じように規範的でありうる。

2-7. 虚構としての複数芸術(Multiple Works as Fictions)

タイプであれ種であれなんであれ、複数芸術では作品そのものを直接調べることはできない。われわれはただ、作品の事例やインストラクションを介してのみ作品に触れることができる。ひとつの見方では、われわれの作品の語りは虚構(fiction)であるという。なぜなら事例以外のものはない[したがって作品そのものはない]からだ。

 作品そのものの語りは虚構であり、ただ事例があるだけだという説をとるRudnerによれば、われわれは作品の事例やインストラクションなどによってしか作品に触れられないというだけでなく、作品を指し示す(refer)ことで作品の事例・インストラクションだけをピックしているのだという。つまり、「ベートーヴェン第五交響曲」という言葉は具体的な実演や楽譜のコピーを指し示す表現だということだ[つまり作品そのものを指し示しているわけではない]。この立場では、たとえば滑稽だとか悲しいだとかいう性質は、作品そのものではなくその実例にのみ帰される性質ということになる。Rudnerは作品をもし虚構ではなく抽象的な存在者だとしてしまえば、それは経験不可能なものになってしまい、これは美学理論や直観に反すると考えているのだ。

 ひるがえって、著者は虚構説に反対する。芸術作品が、その事例と多くの性質を共有しないケースが考えうるからである。たとえばある作品が「フランスで制作された」「ドイツとギリシャで同時上演された」「作家の少年時代の最後に作られた」などといった性質を持つとして、これらの性質は作品の事例とは多くの場合共通しなさそうである。したがって、[これらの性質の帰属先として]作品という概念は必要だ。

 さらに、作品という概念は、特に範例パターンにおいて事例がうまく作られているかを評価するために必要だ。[たとえばバレエ教室で、舞いAの教師の範例を真似して生徒がAを舞うとき、生徒の事例が教師の事例と多少ディティールが違っていても、それが舞いAをうまく表現できていると評価したいとき、作品という概念を比較対象として引き合いに出さないと「うまい」と評価できない。教師の舞いだけが比較対象だと、ディティールが違うという事実と「うまく表現できている」という事実が両立しないのだ。]

3. 普遍者としての芸術作品(Works of Art as Universals)

芸術作品は虚構ではなく普遍者(universal)ではないか、という説がある。[個別者(particular)であるトマト・口紅・人血に対して、「赤」「赤性」といったものを普遍者という。]

 この立場によれば、個々の事例が個別者であり、これらを通して把握される芸術作品が普遍者、ということになる。

 普遍者については二つの立場がある。プラトン的立場と、アリストテレス的立場だ。

 プラトン的立場によれば、普遍者は永遠の存在である。しかし、芸術作品は有限の存在だ。たとえばミケランジェロが制作したユリウス2世の銅像は、1508年に完成のち4年後に破壊されている。ここで、「個別者が有限なのに普遍者が永遠であるというのは奇妙ではないか」という反論が可能だ。これに対する応答として、「芸術作品の制作は、創造というよりは発見である」というものがある。[制作が創造であれば、個別者の有限性と普遍者の無限性との整合性がつかないが、制作が発見であれば、両者は両立する。アメリカ大陸の発見以前にもアメリカ大陸は存在していたように、『ベートーヴェン第五交響曲』の作曲以前にその音構造じたいは普遍者として存在しており、ベートーヴェンは曲を創造したのではなく曲を発見したのだ、というのがこの説の考え方だ。]

アリストテレス的立場についてはてんでわからなかったのでぼくの理解を書いておく。

 アリストテレス的立場によれば、普遍者は創造されたり破壊されたりする有限的なものであり、イデアのように個別者を離れた抽象領域に存在するのではなく、事例[=個別者]の中に内在する。

 しかし、作品の同一性はその作品そのものだけでは構成されない。たとえば、砂浜に偶然浮き上がった文章がある詩Aと奇跡的に一致したとしても、砂浜の文字は詩Aの事例ではない。たまたま同じ文章が生まれただけであり、それは芸術作品ではないのだ。ここからわかるのは、詩Aの同一性はその文字の連なりだけによっては構成されない、ということだ。砂の文章と詩Aは文字の連なりとしては同一だが、それでも両者に違いがあるのは、詩Aが書かれた時代や文化、あるいは作者という存在といった文字の連なりの外部のものである。つまり、作品の同一性には外部が関わるのだ。

 ひるがえって、アリストテレス的立場では、作品の外部情報を作品の同一性に関わらせることができない。なぜなら作品の本質(形相、普遍者)は作品事例に内在していると考えるから、外部を参照項にできないからである。これがアリストテレス的立場の難点だ。

 

4. 芸術作品をめぐる観念論と付随性(Idealism and Supervenience in Regard to Works of Art)

この節では、「芸術作品は精神的な領域に存在する」という説と、「芸術作品は物理的な存在である」という説が、両方ともその極端なバージョンが批判されつつ紹介されている。

 芸術作品は作者の心の中に存在する、という説がある。この立場によれば、たとえばモナリザダヴィンチの心の中に存在するのであり、あの油彩されたキャンバスは「精神的なものである真の作品の外的な代理(an external representative of the true work, which is mental)」(p. 12)である。

 しかし、この立場は「モナリザの真ん前に立ったときでさえモナリザの真の姿を見たことにならない」「作品内容が作者の心の中にある以上、内容が物理的な作品から独立してしまう」「[内容が作者の心の中にある以上、物理的な要素が問題にならないため、]油彩画と水彩画、氷彫刻と大理石彫刻との違いが説明できない」などの直観に反する帰結に至ってしまう。

 では、芸術作品は[もっぱら]物理的な存在である、という立場はどうだろう。著者は、芸術作品は物理的な物質に還元することはできないという。

 たとえば、ダビデ像と、ダビデ像を粉々にしたものとは、物質上は同じであるが芸術作品であるのは前者だけだ。

 さらに、芸術作品はその物質の持つ性質に還元できない性質を持つ。たとえばある絵画は遠近感という性質を持つが、それはキャンバスや画材そのものの性質ではない。『戦争と平和』が持つ重みは、本そのものの重みではない。

 だが、作品やその美的性質は物質に存在論的に依存する、とは言えそうだ。小説や戯曲といった作品も、物質なくして享受されることはない。コンセプチュアルアートでさえ、タイトルやインストラクションに存在論的に依存している。また、美的性質もその物質に依存する。小説や戯曲の台本の台詞の並びが変わったらその美的性質は変わるだろうし、ある絵画がもっと明るい色調だったら、それが暗い雰囲気を帯びることはなかっただろう。

 テクニカルタームを使えば、作品の存在や美的性質は、それを構成する物質、あるいは範例、エンコーディング、インストラクションに付随(supervene)する。[AがBに付随するとは、AがBなしには存続できない、くらいの意味だと理解している。この文脈では「存在論的に依存する」という意味で解釈してよいと思う。]

 

5. 文脈主義と存在論(Contextualism and Ontology)

前節で見た[芸術作品の同一性は作品そのものの構成要素のみから成るという]形式主義・経験論的な考えは、「文脈主義(contextualism)」によって批判されている。

 文脈主義によれば、[作品そのものだけでなく]その作品が制作された美術史的文脈・社会的文脈なども作品の同一性に貢献するという。つまり、全く同じ見た目をした2つの作品でも、それが作られた時代や文化・社会的背景などの「文脈」が違えば、両者はそれぞれ違う作品になるということだ。さらにLevinsonの一歩踏み込んだ立場においては、作品の同一性に貢献するのは作品そのもの・歴史的文脈・社会的文脈だけでなく、作者の同一性(アイデンティティ)もそうであるという。つまり、全く同じ歴史的社会的背景において作られた、全く同じ見た目をした作品でも、作者が違えばそれらは異なる作品だということだ。著者は文脈主義の先駆けとして、ボルヘスの短編「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」*1を挙げている。この作品で示唆されているのは、同じテクストであったとしても、それが書かれた文脈が異なれば作品の評価や解釈も変わってくる、と言うことだ。そしてこれは、作品の同一性には作品そのもの以外のものが関わることを示唆している。知覚的には同一の作品であっても主題や美的価値が異なる可能性を認める存在論が「文脈主義」だ。

 では、その「文脈」には具体的に何が含まれるのか。すでに述べた美術史的・社会的文脈以外にも、機能(function)、様式、ジャンル、技術的要因が文脈に数えられる。[たとえばある作品のジャンルの同定はその作品の評価に根本的に関わる。同じ「魔法で鍵を開けるシーン」であっても、それがファンタジー小説かミステリ小説かでは評価が変わってくるだろう。前者では普通のシーンだが、後者では低評価につながるシーンだ。]

 

5-1. 行為タイプとしての芸術作品(Works of Art as Action Types)

これまで見てきた観念論以外の立場では、芸術作品は対象あるいは出来事であった。しかしCurrieは芸術作品を行為(action)だと考える。

[よくわからなかったので以下の信憑性微妙です]

 著者はCurrieの立場を「芸術作品とは行為なのだ(works of art are actions)(p. 15)」としている。著者の説明をもとにもっと詳しくいうと、「芸術作品とは、その構造物(キャンバスなど)から逆算して捉えられる、その構造物を制作した作者の行為である」くらいにまとめられそうだ。つまり、芸術作品の本質はその物質ではなくむしろ制作行為の方なのだ。もちろんこれは文脈主義の一種である。

 したがって、Currieにしてみればモナリザのキャンバスそれ自体は芸術作品の事例ではない。作品はむしろそのキャンバス=トークンではなく、そのタイプの方であり、このタイプこそが芸術家の制作行為なのだ。モナリザの場合はトークンがひとつだからトークンとタイプの違いがわかりにくいが、「たまたまトークンがひとつのタイプ」と考えればよい。

 では、なぜCurrieは芸術作品をわざわざ「行為」と捉えるのだろうか。それは、Currieが「芸術作品を評価することは、芸術家の達成を評価することだ」という考えを持っているからである。

 しかし、こうしたCurrieの考えは直観に反する。芸術作品を評価するとき、われわれは芸術家の達成だけではなく、物質としての作品それ自体も評価するように思われるからだ。

 

5-2. 文化的な現れとしての芸術作品(Works of Art as Culturally Emergent)

Margolisはよりラディカルな文脈主義を提唱する。Margolisによれば、作品の同一性にはわれわれの受容や解釈も関わってくるという。その結果、作品の同一性は、受容者・解釈者側の時代や文化、捉え方によって変わるのである。

[ここまで検討してきた文脈主義は、「その作品が作られた当時の文化や社会的背景、ないしは作者の存在が作品の同一性にかかわる」というものだったが、Margolisの立場は「われわれの解釈も作品の同一性にかかわる」というものである。ラディカル!]

Margolisによれば、芸術解釈におけるわれわれの関心はその作品の起源ではなくむしろ現在に向かっている。[したがって時代ごとに解釈は変わっていき、かつその解釈は作品お同一性に関わるため、作品の同一性は可変である。]

 著者はMargolisのこうした議論に反論を加える。まとめるとこうだ——「われわれは芸術の達成やその優れた技術も鑑賞するものだ。そして、芸術史のなかでその作品がどう位置づけられるかについて知らなければその達成を知ることはできない。ということは、芸術は現在のわれわれの解釈だけでなく、当の時代についての情報もその同一性にかかわる。したがってMargolisの考えはいまわれわれが採用している芸術作品という概念をうまく説明できていない。」

 

5-3. オートグラフィックな芸術vs. アログラフィックな芸術(Autographic versus Allographic Art)

この節ではGoodmanが用いた「オートグラフィック/アログラフィック」という芸術を分類するための二分法が紹介・検討されている。

 オートグラフィックは「自筆的」とも訳せるタームであり、例えば絵画などの作家自身が直接描いたものがこれに当たる。オートグラフィックな芸術はどんなに正確な複製であっても贋作になる。

 いっぽうアログラフィックは、「記譜法」をなぞることによって複製されるような芸術のことをいう。例えば音楽は楽譜という記譜法に則って複製されるものだ。アログラフィックな芸術は、その正確な複製が贋作にならないという特徴がある。

 オートグラフィックな芸術/アログラフィックな芸術の二分法は、本稿が検討してきた単数芸術/複数芸術の二分法に対抗するように見えるかもしれないが、実際は少しずれている。例えば版画は複数芸術であるが、複製が贋作になるためオートグラフィックな芸術になる。

 作者は3つの反論を加える。

 まず、Goodmanはアログラフィックな芸術の同一性をもっぱら記譜法のみに求めているが、これは既に見たような文脈主義的な見地から反駁できる。作品の同一性にはその記譜法に加えて、その記譜の制作や使用も関わるはずだ。

また、記譜法に還元されないような音楽——例えば「4分33秒」や即興音楽やジャズ——がGoodmanの考え方では扱えないというのも難点だ。

さらに、「記譜法的な作品がオートグラフィックなものになるケースもある」とGoodman理論に反例を挙げて批判するのだが、これはよくわからなかった。「もし小説や音楽がたった一人の人間に作られたとしたら、それはオートグラフィックなものになるだろう」と著者はいうのだが、その理由づけがわからない。

 

6. ハイブリッドな芸術形式(Hybrid Artforms)

これまで絵画や版画、彫刻、文学、音楽などの「純粋な」芸術形式ばかり扱ってきたが、芸術形式の中にはハイブリッドなものもある。たとえばオペラは音楽と演劇のハイブリッド、バレエは音楽とダンスのハイブリッドである。

 では、ハイブリッドな芸術は存在論的にどう考えられるのか。

 バレエを例に取ろう。バレエ作品の同一性にとって音楽は重要だが、同一性の全てが音楽に還元されるわけではない。バレエの同一性が音楽に還元することはできないということは、既存の音楽作品から作られるバレエがあることからわかる。ダンスもバレエの同一性にとって重要なのだ。[もちろんダンスだけに還元することもできないだろう。]

 バレエの同一性は複雑だ。自由な振り付けが組み込まれている作品もあれば、自由な演奏が組み込まれている作品もある。[それぞれの自由性によって、それぞれのバレエ作品の同一性は音楽ないしはダンスの「記譜法」に還元できなくなる。]

バレエは存在論的に複雑だが、バレエに限らず、他のハイブリッドな芸術にも言えることである。

 

コメント

・後半の内容がしんどかった。

・分析美学入門に存在論の章があるが、あれより広く浅くという感じ。こっちの方が入門用としてはオーソドックスなのではと思うが、「論じる<紹介する」というスタンスなので、歯痒い思いをすることもしばしば。

・卒論(作者性の哲学)にガッツリかかわりそうだから読んだけど、解釈の哲学とか定義論とか分析美学内の多くの他分野にもかかわっていそうで、色々応用のきく教養を得た気がする。

・漫画・アニメの実写化の哲学とか、芸術の存在論をちゃんと勉強したら書けそう。「原作に忠実であるとはどういうことか」とか。「怒られる原作改変とそうでない改変は、どういうロジックで評価が分かれているのか」とか。

・誤りなど見つけましたらドシドシバシバシご指摘ください。

 

 

*1:

[以下、『伝奇集』(岩波文庫)に基づいて同短編を要約する。「」内は引用。

語り手の亡くなった友人ピエール・メナールは小説家であった。メナールは生前に「『ドン・キホーテ』第一部の第九章と第三十八章、さらに第二十二章の断片からなっている」奇妙な作品を残している。つまり、メナールのこの作品は、セルバンテスの名作『ドン・キホーテ』と該当の章と一字一句同じテクストからなっているのだ。

しかし、メナールは『ドン・キホーテ』を書き写そうとしたのではなく、あくまで一人の作家として小説を書き、それが『ドン・キホーテ』と一字一句共通するようにしたのである。

そのために、メナールはまずスペイン語セルバンテスの言語)を勉強したり、カトリックを信仰したり、『ドン・キホーテ』が書かれてから現在までの三百年の歴史を忘れたりと、セルバンテスその人になることを目指した。しかし彼はそれを諦め、セルバンテスを憑依させることなしにその小説を書こうとする。彼は原作とは異なる文章を試みては、原作と違うという理由でそれを棄却した。

このようにして、セルバンテスの『ドン・キホーテ』と、そのいくつかの章と一字一句同じ『ドン・キホーテ』の二つの作品が並立することとなった。語り手はセルバンテス版よりもメナール版の方をより高く評価し、後者の方が前者よりも解釈が「無限に豊かである」とする。

最後に、とりわけ印象的な評価を引いておこう。

セルバンテスは次のように書いている(…)。

……真実、その母は歴史、すなわち時間の好敵手、行為の保管庫、過去の証人、現在の規範と忠告、未来への警告。

十七世紀に、「無学の天才」セルバンテスによって書かれたこの列挙的な文章は、歴史への単なる修辞的な賛辞でしかない。ところが、メナールはこう書く。

……真実、その母は歴史、すなわち時間の好敵手、行為の保管庫、過去の証人、現在の規範と忠告、未来への警告。

歴史、真実の。この考えは驚嘆に値する。ウィリアム・ジェイムズの同時代人であるメナールは歴史を、真実の探求ではなく、その源泉と規定する。歴史的真実は彼にとって、かつて起こったことではない。かつて起こったとわれわれが判断するところのものだ。末尾の句——現在の規範と忠告、未来への警告——は臆面もなく実用的である。」]